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【平頂山事件】莫徳勝陳述

1997年3月14日東京地裁第103号法廷

平頂山虐殺事件は、日本軍国主義が中国を侵略し中国人民を虐殺した動かぬ証拠です。私は、被害に遭って65年たつ家族や同胞達のことを片時も忘れることは できません。1932年9月16日、平頂山の3000人余りの罪のない村人たちが、日本軍の銃と銃剣のもと惨死されたのです。

私の家は、父、母、妹、母方の祖父、祖母の5人が日本軍によって殺されました。私も刺されましたが、幸い難を免れて、死体の山から逃げ出しました。私の祖 父の弟の一家の5人も日本軍によって殺されました。これは関東軍の撫順守備隊が計画的に行った大虐殺です。平頂山村民の虐殺のやり口も残忍で野蛮なやり口 は頂点を極め、その蛮行は数え切れません。

私の一家は千金さい平頂山に住んでいて、父は日本の炭鉱の、母は日本の火薬工場の労働者でした。私は当時8歳で、和塾館という私塾に通っていて、妹は3 歳、母方の祖母が世話をしていました。母方の祖父は漢方医で、平頂山海亭薬局を経営していました。当時の生活は良好で、そのような大禍が目の前に迫ってい るなど夢にも思いませんでした。

9月15日、夜中寝ていると、「殺せ。」という叫び声にあわてておこされ窓のところに行って外を見ると、東北義勇軍が平頂山を通過しているのが見えまし た。第一連隊は青龍刀部隊、第二連隊は槍部隊、第三連隊は歩銃兵隊で、「殺せ。殺せ。」と言いながら北に向かって駆けて行くのが見えました。しばらくする と、北西の方向から銃声が聞こえ、銃声は鳴ったり止んだりしながらも時折激しく聞こえてきました。

私は、一晩まんじりともせず、翌日朝早く起きて、隣家の3人の子供と外に出て、山から下を眺めると、北の方から数台トラックが向かってくるのが見えまし た。中には、日本兵が乗っている車もあり、彼らは頭には鉄兜をかぶり銃を抱えていました。車が乳牛を飼っている牧場の前で止まると、日本軍が降りてきて平 頂山を包囲しました。私は家に戻り、母に「まずいよ。日本兵が平頂山を取り囲んでいるよ。」と言うと、母は「父さんが夜勤から戻ってくるまでまっていよう ね。」と言いました。

しばらくして、父が帰宅し、家に上がるなり、「平頂山で何があったのだ。日本軍が平頂山を包囲してどの道の入口にも見張りが立っている。入るのはいいが出 ることは許さんと。身体チェックを受けて入ってきたよ。」と言いました。この時、隣家の劉じいさんがあわてて家にやって来て、父に、「大変だ。日本兵が、 北道から外に人を追いやっている。平頂山を匪賊が通ると言って。お前たち、急げ。」劉じいさんが行ってからうちの一家はあわてて集まりました。母は「急い でどこか隠れる場所を見つけよう。」と言いました。父は、「どこへも行けないよ。平頂山は出られなくなっている。」と言いました。祖父は、「私らのような 庶民が何をおそれることがあろうか。奪うとか盗むとかしたわけじゃないし、行くことない。」と言いました。

この時、日本兵がわが家のドアをたたき壊して、勢いよく部屋に入ってきました。日本兵は3人いて、そのうちの年輩の1人が父に、「匪賊がきたぞ。大事なも のを持って出ろ。皇軍が守ってやるから。」と言いました。父は、「行かない。ここは私の家だ。」と言いいました。他の2人の日本兵が、「早くにげろ。行か ないと死んでしまうぞ。」と言って、銃床で父をめったうちにしました。私たちは、家の門を無理矢理追い立てられて出ました。大通りに出ると人がいっぱいい て、その群にくっついて西山のふもとの草地まで追いやられました。

ここまで来ると、翼があっても飛べません。西山は高くないがけわしい。北には牧場の電線があり、東と西には日本兵がきらきら光る刀を持って見張っていまし た。人が集まって何やらさかんに話し、ある者は「どうして中に閉じこめられ外に出られないのだ。」と訴えていましたが、日本兵は答えませんでした。

しばらくして、肩に刀をさげた日本の軍官が、刀を手に持った4人の日本兵を連れて人々の前にやって来ました。通訳がまことしやかに言いました。「皇軍が君 たちを集めたのは、君たち中国人民の生命財産を守るためだ。匪賊が君たちを殺し、財産を奪いにやってくる。奴等はまだ東山にいる。」。彼は、刀を抜いて東 山を指しました。日本兵の1人が赤い玉をそれに向かって投げあげ、東山にいた日本兵が、あらかじめ仕組まれたとおりにパンパンと銃を放ちました。

みんなが東山の方に目をやると、そのすきに機関銃を構えた日本兵が、武器を持たない村民に狂ったような掃射を始めました。前の方にいた人は、ザーッと倒れ ていきました。父は、「まずい。」と言って私の頭をおさえ、「伏せろ。」と言いました。私は父の西側に伏せ、父の東側には母が妹を抱いて、さらに東には祖 父母がいました。この時、弾が私の頭の上をビュンビュンと飛んでいき、前にあった土から煙が上がりました。私の西南方向には労働者が一人伏せていて、弾が お尻に当たり煙が上がりました。彼は、新しい綿のズボンをはいていました。彼の足がぴくんと動くや、弾が彼の身体に集中して当たり、二度と動かなくなりま した。私はとても悲しくて、まだ8歳なのに「この人みたいに日本軍に撃たれて死ぬのだろうか。両親にももう会えないのだろうか。」と思いました。祖父が、 「この世に神はないのか。私が何の罪を犯したというのだ。」と叫ぶのが聞こえました。日本軍はなんとしても我々を殺そうとしました。父は「中国人を殺し尽 くせはしない。私が死んでも仇をとってくれる中国人がいっぱいいるぞ。」と言いました。「このまま死んでたまるか。」という叫び声が東北の方向から聞こ え、炭鉱労働者たちが一斉に外に飛び出しました。数歩進んで血の海に倒れました。銃声が雨音のように激しく鳴りました。銃声、叫び声、泣き声がひとつに なって響いていました。外祖母は大声で泣き出し、「太股を撃たれた。」と言いました。母は大声でののしって、「妹が死んでしまった。日本軍は残虐でむご い。絶対いい死に方はしないぞ。」と言いました。外祖父は、「泣くな。わめくな。日本兵が聞きつけたら我々に向かって集中攻撃をするぞ。死んでしまう ぞ。」と言いました。父は「大丈夫だ。」と言って、かぶっていた麦わら帽子をとって私の頭にかぶせました。私の目からは涙が止めどもなく流れ、「妹が死ん でしまった。もう妹に会えないのだ。」と思いました。

泣き叫ぶ声がだんだん少なくなって、銃声も徐々に止んできました。子供の泣き声、そして、日本兵の大笑いする声が聞こえてきました。私は帽子をちょっとず らしてそのすきまから両サイドをのぞき見ると、南に一列、北に一列、日本兵が並んで銃剣で刺していました。息のある者を見つけるとさらに刺していました。 子供が一人、身をおこして「かあさん。かあさん。」と泣きました。日本兵がキラキラ光る刀を持ってきてひと刺しすると、子供は激しい叫び声をあげて死にま した。私は、髪が逆立ち、恐くて恐くてもう目をあげられませんでした。帽子を頭にかぶせて死を待ちました。日本兵が、徐々に私のそばまで刺しに来て、私の 心臓の鼓動は激しく鳴りました。ちょっと見ると、日本兵がすぐそこまで来ていて、私を刺そうとしていました。私は、目を閉じて死んだふりをしていたら、一 人の日本兵が軍靴で私の腰骨を踏みつけました。とても痛かったが、私は歯を食いしばって動きませんでした。その時、左肩を刺され冷たい痛みが走りました。 そうして、日本兵は去っていきました。

私は、死んだのか、まだ生きているのかもわかりませんでした。目を見開くと前方に労働者が血塗れに横たわっているのが見え、私は、まだ生きているのだとわかりました。再び目をとじて、そこに伏していました。

しばらくして、まわり中音がなくなったとき、誰かが「生き残った者は逃げろ。日本人は行ってしまった。ガソリンを取りに行った。戻ってきて死体を焼くの だ。」と言いました。私は「これは計略なのではないだろうか。」と疑って動こうとしませんでした。再び声が聞こえたとき、初めて頭を挙げまわりを見ました が、日本兵は一人もいませんでした。起きあがって、父に「逃げよう。日本兵は行ってしまった。」と言いましたが、父は目を見開いて私を見るばかりで起きあ がろうとしませんでした。私は、父が「気絶したんじゃなかろうか。」と思い、「手を噛んだら痛さで起きあがるだろう。」と考えました。噛んでも動きません でした。手を引っ張っても動きませんでした。よく見ると、首から血が流れ出していました。父はもうダメだとわかったら、頭がボーとして、もう少しで倒れそ うになりました。「父さん。父さん。死ぬな父さん。」と大声で泣き出しました。母にかぶさっていたものをとると、妹が血塗れのまま母の懐に抱かれていまし た。母の手をどかすと、母も息がありませんでした。祖父、祖母も死んでしまい、家族の中に私はただボーとつっ立っていました。日本兵はひどい、むごい。こ んな短い間に、家族をみんな殺してしまった。私一人残ってどうすればいいんだ。再び誰かが、「生き残った中国人は逃げろ。日本兵が戻って来るぞ。」という 声がし、私はやっと我に返って、家族に最後の一別を送ると平頂山を逃げ出しました。

中秋節になると決まって私は災難に遭った家族と同胞たちを思います。崖の下に横たわった死体、血の海と化した地面を思います。この残虐な歴史を私たちは永 遠に忘れません。あの時の痛恨の思い、悲観の声を忘れません。母が憤りにかられ激しく日本兵を罵倒したこと、妹が血だらけになって母にしがみついていたそ の小さな手。父が日本兵を恨むあまり怒りの炎を光らせていたその眼を忘れません。炭鉱労働者が日本兵の銃口に突進していったその壮絶な行為。中国人の勇敢 で死をおそれない強さ。これらを私は決して忘れません。平頂山の人民に罪はありません。白髪の老人、お腹の中の赤ん坊にどんな罪があるというのでしょう か。日本兵は、3000人余りを殺しただけでなく、死体にガソリンをかけてその後をもみ消し、さらには家屋に火を放って焼きました。そうして、爆薬を使っ て山を爆破し、全ての罪業、まだ生き残っている人たちを山の下にうずめようとしました。しかし、いかに地球上から永遠にこの残忍な歴史を抹殺しようとも、 法の網の目をくぐって逃れることはできません。揺るぎない証拠が山のようにあるし、歴史は必ずや真相を現すものだからです。

世界中の父母、兄弟、姉妹たちは、誰もが家族への親愛の情を持って、ともにつどい、ともに祭日を祝いたいと願っています。しかし、平頂山の親、兄弟たち は、1932年以来、平頂山村民は永遠に家族と引き離され、二度とつどうこともなく、恨みを抱いて冥土に眠っています。これらすべて、日本軍国主義が日本 人民の意思に背き武力を持って侵略を拡大し、中国人の土地にやって来て、人を殺し、火を放ち、中国人に空前の災難を与えた結果であります。1930年代の 歴史を振り返ると日本国民も被害者で、日本の軍国主義は日本人にも同じように苦痛と災難を与えているのである。

これらは我々に過去の歴史を忘れず、正しく歴史の教訓をくみ取って、両国の友情を深めるべきであると教えています。我々は、不幸な歴史によって鍛えられた 両国人民の頭はさらに明晰になり、意志は強くなり、両国人民の友情を発展させ、深め、幾世代にもわたってそれが続いていくものと信じています。

裁判所で私の訴えが受けいれられ、今日はまた私の陳述を聞いていただけて、とても感謝しています。私は、平頂山の村民は無罪であるということについて、3つ言いたいことがあります。

  1. 平頂山村民は、抗日活動に参加していなかった。
  2. 平頂山村民は、匪賊に通じていなかった。義勇軍に通報していなかった。
  3. 平頂山村民は、義勇軍が平頂山を通過することを事前に知らなかった。

平頂山の村民に何の罪があるのでしょうか。日本軍は、事の真相をきちんと調べもしないで、平頂山村民を集め、惨殺を行いました。さらに、腹立たしいこと に、惨殺の数分前に日本軍の軍官は人々を欺いて皇軍が「君たち中国人の生命と財産を守るために来たのだ。」とか「匪賊が来て君たちを殺す。」とか「奪 う。」とか言ったのでした。殺人を犯した匪賊というのは、実は日本軍自身ではないのですか。日本軍は、既に国際法に違反した罪行を犯しており、人道的に許 されるものではありませんし、その罪は逃れるものではありません。以上

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