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婁慶海さん陳述書

2004年9月30日の第1回控訴審で、原告の婁慶海さんが冒頭に行なった陳述書です。

私は、婁慶海と申します。1927年10月3日に中国河北省定興県で生まれました。旧暦1944年4月15日前後、当時16歳の私は、畑で仕事をしていた 父に水を運んだ途中で日本人と中国人の混じった兵士に捕まり、日本に連行され、飛島組の宮下作業所(福島県の発電所建設現場)で労働を強制されました。

毎日朝4~5時に起き、夜遅くまで石運びをさせられました。未成年だった私は体力が弱く、石が大きくて動かせないと、いつも日本の現場監督に殴られ、体の あちこちに傷跡が残りました。毎日粗末で量の少ない食事を与えられ、いつもお腹を空かして重い労働を強いられました。そのために胃の病気になり、今になっ ても治りません。

木の板が引かれた床の狭いスペースで寝ましたが、外から風が入ってきてとても寒くて、膝の関節炎になり、今も治っていません。風呂もなく、戦争が終わるま で体を洗うことも出来ませんでした。冬は雪が積もり大変寒くて、私たちは薄着のまま鉄道の除雪をさせられ、私を含め殆どの人が足に凍傷を負いました。

奴隷のような扱いで、非人間的な労働と生活条件ののもとで、多くの労工が死傷し、病気に苦しみました。私の知り合いの中でも、私と同じ班の李主児という労 工が仕事のときに飛んできた石に打たれ腸が流れ出し、大変な苦痛の中で死にました。何振英という労工は作業のとき機械に巻き込まれ、即死しました。班長の 苗水は山頂から転がり落ちた巨大な石にぶつかり重傷を負いました。このような惨事を見て、私もいつか現場監督に殴り殺されるか、病死するかと恐れる毎日で した。父と母を思い、故郷に帰りたいと願う毎日でした。日本が降伏した後、1945年陰暦の10月、私はやっと帰国し故郷に帰りました。大変嬉しい気持ち でしたが、家に帰ると一家が完全に変わったことを初めて知りました。私の父は私が日本軍に連行された当日、勇気を出して日本軍の拠点に行って私の釈放を求 めましたが、日本兵に胸を強く蹴られ、数日後に亡くなりました。母は、父の死を悲しみ、また私の帰りを待ち望み、毎日ずっと窓の外を見て涙を流し、ついに 失明してしまいました。2人の弟は13歳と9歳で、無力の3人の生活は全く悲惨でした。一番下の弟が病気になり、治療するお金もなく、話が全く出来なく なってしまいました。

日本人は私を苦しめたばかりでなく、私の一家を地獄に陥れました。私は、日本国と飛島組に、私に誠心誠意謝罪し、賠償することを強く求めます。

東京地方裁判所は良心に背いて私の敗訴の判決を下しました。これは到底受け入れられません。日本の国も企業もこのような姿勢では、日本は昔と全然変わって いないといわざるを得ません。東京高等裁判所が良心と正義に基づいて、私のような被害者のために正しい判決を下すよう希望します。私は必ず最後までこの裁 判を続けます。私が死んでも、私の子どもが引き続きがんばります。日本国と飛島組が謝罪と賠償をするまでたたかいます。
2004年9月30日

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