Home > 劉連仁(東京第1次)訴訟 > | 原告の証言・陳述 > | 強制連行訴訟 > 劉連仁意見陳述

劉連仁意見陳述

七月一五日東京地裁で強制連行訴訟第一回口頭弁論が行われた。来日中の劉連仁さんは原告席に立ち、旧日本軍の非人道的な行為を、そして戦後の日本政府の無責任ぶりを訴えた。
劉連仁さんが初めて法廷で述べたその意見陳述の全容を紹介します。

1996年7月15日・東京地方裁判所民事14部
東京地方裁判所103号大法廷

1944年9月28日、当時三一歳だった私を、日本軍は理由もなく家から連れ去りました。高密の駅で私は逃げましたが、このとき頭に銃撃を受け、重傷を負 いました。もう少しで命を落とすところでした(今でもその時の傷痕が残っています)。10月11日、青島から船に脅迫的に乗せられ、二〇〇名の受難の中国 人が明治鉱業で石炭の仕事をさせられ、半年の間で迫害を受けて、九名が死亡しました。私は、虐待に耐え切れず逃げ出し、洞窟の中で13年間、人でもなけれ ば幽霊でもないような、野人の生活を強いられました。正常な人の生活習慣まで奪われました。筆舌に尽くし難い残酷な事実が、世界的なニュースとなって知ら れました。私が連れ去られた後、私の父、母が自分の子供を想うばかりに、相次いで亡くなりました。妻子が夫の帰りを待ち、兄弟たちが私を捜して苦労しまし た。家は完全に破壊され、私と私の家族に痛恨の念を残しました。

北海道の山の奥は食べるもの、着るもの、住むところもなく、夏には野草や木の実、冬は昆布で飢えをしのぎ、草の縄と紙で着るものを作り、小さい穴を掘って 雑草を敷いて家とし、冬の間五、六ヶ月もの長い期間冬眠生活をしました。劣悪な環境で、飢えと寒さ、いろいろな病気にも苦しめられ、13年間の長い生活に 耐えて、奇跡的に生き延びてきました。1958年1月、幸いにして袴田清治さんが猟の最中私を発見し、1958年4月、ようやく祖国に帰ったのです。帰国 前、岸信介政府に厳正に四項目の声明を提出しました。

  1. 日本政府が公に謝罪をすること
  2. 損害を賠償すること
  3. 華僑を虐待しないこと
  4. できるだけ早く帰国させること

です。その当時の官房長官の返事は、「帰国後すぐ解決する」というものでした。しかし、大変腹が立つのは、帰国後三七年間のうち、91年、95年の二回ほ ど、来日して道理を求めたのに、いまだに日本政府から私に明確な返事がないことです。日本軍国主義による、精神的・肉体的な虐待は、私の終生の苦痛になり ました。基本的な人権、道義も守らないで、全てが解決されず残されています。恥知らずにも、アジアや世界に責任をもつと宣言し、中日友好などと言います が、どういう顔をしてできるのでしようか。本当に人々を落胆させるものです。

この五〇年間、私の心身、家庭的な不遇に対する責任は、日本政府が全て持たなくてはなりません!私の損失は、金銭で補われるものではありません。日本政府における賠償は、ただ道義的な表現にすぎません。

私の経歴はすでに歴史になりましたが、歴史を忘れてはいけません。被害者は忘れてはいけませんが、加害者はもっと忘れてはいけません。歴史の教訓を汲み取 り、前の間違いを真心をもって改めて、真の歴史の事実を尊重し、解決することから、中日関係は初めて確実に、発展的に、子々孫々まで続けられるものであ り、そして国際社会に貢献できるのです。

正義を実現させ、中華民族の尊厳を守るために再び言います。

日本政府は必ず

  1. 公に謝罪すること
  2. 肉体的・精神的に受けた損害を賠償し、私、家族、訴訟代理人にかかった費用の賠償をすることで、その誠意を示すこと
  3. 中日両国でそれぞれ記念物を建てて、後世を教育し、歴史の悲劇を再び繰り返さないこと

もし日本政府が、この三項目の内容を、知らない振りをして無視するのならば、全てが解決するまで、子孫に渡って闘ってゆくつもりです。

中国.山東省井溝鎮草泊村
劉連仁
1996年7月15日

Home > 劉連仁(東京第1次)訴訟 > | 原告の証言・陳述 > | 強制連行訴訟 > 劉連仁意見陳述

検索
解決へ向けた取り組み
おすすめ書籍

Return to page top