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劉連仁氏声明

流浪の果てに
劉 連仁

1944年旧暦9月8日、当時私は32歳でした。日本軍は、何の罪もない私を家の中から捕まえて行きました。高密駅で逃げようとしたところ銃で撃た れ傷を受け、現在も頭部に傷跡があります。9月28日、青島から強制的に船で日本に連れてこられた我々200名の中国人は、北海道の明治鉱業株式会社昭和 鉱業所で、採掘の強制労働に従事させられました。

寒風が骨身にしみる中、着のみ着のままで食べ物も充分でなく、採掘を強制される状況下で、少しでも仕事が遅れればひどく打たれ、半年の間に死に至った同胞は9人(内4名は、私が連れ出して一緒に逃走した仲間です。)

虐待に耐えかね、この地獄から抜け出した私は、山奥に暮らすこと13年。人間とも亡霊ともつかない原始生活を過ごしました。こうした経験は、世界中でも稀なことでしょう。

私の家族には、今も深い傷跡が残っています。私が連れ去られた後、父母は息子を思いながら相次いでこの世を去り、妻子は夫を思い涙も涸れはて、兄弟姉妹は、足を棒にして行方不明の兄弟を捜していました。幸せな家庭がこうして壊されてしまったのです。

北海道の山奥で、食べるものも、着るものも、住むところもありませんでした。夏は雑草、冬は乾いた海草で飢えをしのぎ、捨てられていた紙の袋を草縄で縛っ て衣服とし、小さな穴を堀り雑草で覆い、冬が来る毎に穴の中にこもって5~6カ月じっとしていました。このような悪条件下で、人と戦い、自然と戦い、飢 餓、野獣、病魔と戦いました。13回もの寒さと暑さに耐え、奇跡的に生きてきたのです。

1958年1月、袴田清治さんが狩猟の時私を発見してくれ、華僑の方と日本の友達の尽力でついに1958年4月10日に帰国することができました。

帰国前、私は岸信介政府に対し四項目からなる声明を丁重に提出しました。

  1. 政府は公に罪を認める。
  2. 賠償金を支払う。
  3. 華僑を虐待しない。
  4. すみやかに私を国に帰す。

しかし、私が帰国して34年、日本政府は今もって私に何の明確な回答もよこしません。これには強い憤りを覚えます。私はすでに80歳を越えました。まだこ の先、何年待たなくてはならないのでしょうか。日本軍国主義は私に終生忘れえぬ苦痛を与えました。この精神的、肉体的迫害は、まだ足りないとでもいうので しょうか。もし日本政府が、最低限の人道も放棄するというのであれば、本当の意味の日中友好と言えるのでしょうか。

私の経験はもうすでに過去の事となってしまいましたが、過去の事を忘れるべきではありません。被害者は忘れることはできないし、加害者は忘れるべきではあ りません。歴史から教訓を汲み取る事によってのみ、歴史を清算することができ、こうして初めて、真の日中友好となり得るのです。もし日本政府がアジア各国 の人々に与えた戦争責任を認めることができないならば、国際社会への貢献などできないでしょう。誠意を持って歴史の問題を解決してはじめて日中友好関係を 固く築き上げ、発展させ、次の世代に受け継ぐことができるのです。
1948年以降私の幸せな家庭は壊されましたが、この損失は一体誰が埋め合わせてくれるのでしょうか。私が心身に受けた傷は、誰が責任をとってくれるので しょうか。私の受けた損失は金銭で補えるものではなく、賠償というのも単に道義上の表現にすぎません。日本政府が、責任を認めるという誠意を説明するだけ のものにすぎません。

正義のため、中華民族の尊厳を守るため、私は、ここで再度声明を出します。日本政府と企業の責任者は、必ず下記の項目を実行に移してください。

  1. 私個人に、公に謝罪する。
  2. 私が受けた精神的、肉体的な損失について賠償をし、誠意を持って罪を認める。
    私と家族が訪日し、この件について奔走するのにかかった一切の費用を負担する。
  3. 日中両国それぞれに記念物を建立し、教育により後世に過去の悲劇を再び繰り返さないことを伝える。

もし日本政府と企業責任者が依然として聞く耳を持たず、私が提出したこの三項目の声明を無視したならば、私の子孫は、戦い続け、問題解決にあたるであろう。

1995年8月15日 中国山東省高密県井溝鎮草泊村 劉連仁

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