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敬 蘭芝さんの意見陳述

私は敬蘭芝と申します。今年七三歳になります。住まいは中国ハルビン市です。

半世紀が過ぎました。私の家族、私の仲間が、牡丹江の憲兵隊に逮捕されころされていった状況を思い起こすたびに、そして振り返るのも耐え難い当時のことを 思い出すたび、心はふるえ悲しみにあふれ、このつらさはことばに表すことができません。日本の皆さんもこれを知ればきっと心を痛めるものと私は信じており ます。

かつて日本の軍国主義が中国で行った残酷な行為の数々は、血生臭い歴史の一部になりました。中日両国民ともこれを忘れることはないでしょう。

私たちの組織には、張文善、敬恩瑞、朱子盈、呉殿興、孫朝山、竜桂潔、そして私がおりました。そして私と竜桂潔を除いた他の五人の同志たちはみな、日本軍731部隊で殺されてしまいました。このことはソ連の裁判資料ですでに確認されております。

彼らが牡丹江憲兵隊に逮捕された状況については、私はこれを証明することができます。私自信がその生き残りであり、当時をしっている生きた証人であるからです。

それは1941年7月17日のことでした。夫、朱子盈は朝いつも通りに出かけましたが、五時を過ぎても帰ってこないのです。あちこち聞いて回りましたが、 夫の仕事仲間は皆、午後からは姿を見ていないと言います。その夜七時をまわった頃日本の憲兵がやって来ました。何人かの憲兵が家中のものをひっくりかえし たあげく私を憲兵隊に引っ張っていきました。そのとき私は、これは夫も捕まって連れてこられているなと思いました。

この日の深夜になって、憲兵は私に拷問を加えました。私の衣服を剥ぎとり皮ベルトで鞭打ちながら尋問しました。私は自分は主婦だから何も知らないと言いま した。翌日の午前、再び尋問室に連れて行かれるとそこに手錠足かせをはめられ、衣服はボロボロで顔には血のあとがある夫、朱子盈がいました。憲兵は朱子盈 の前で、私を殴り蹴り鞭打ちました。

苦痛のあまりに叫び声をあげるとそのまま気を失ってしまいました。気がつくと朱子盈が涙を浮かべてこう言っているのが聞こえました。

「殴るな。彼女は主婦で何も知らないんだ。間きたいことがあれば私に聞けばいいだろう」

憲兵は私を放し鞭を取り上げると朱子盈を激しく打ち始めました。気を失うと冷たい水を浴びせかけるのです。私は夫の所に駆け寄りたかったです。しかし二人 の憲兵が私を元の部屋に無理やり連れ戻しました。朱子盈が打たれて息もたえだえになっている様子を見て、私は断腸の思いでした。

四日目の夜、憲兵達はまた私を尋問に引っ張り出しました。憲兵の一人が棒で私の腹を打とうとしたので、それを避けようとして手首に棒が当たり、手首の骨が 折れました。私は何度も打たれてそのたびに気を失いました。何度目かに気づいた時、尋問室はとても静かでした。そこへ突然悲鳴があがりました。よく知って いる人間の声でした。その声は私の心を突き刺しました。何とか立ち上がろうとしましたが、二人の憲兵が無理やり二階のある部屋に私を引きずって行きまし た。そこで夫が棒にくくりつけられ、ぶら下がっており、首は垂れ、服はボロボロでした。皮膚は裂け血だらけで自分の夫とは思えませんでした。とんでいって 夫を揺さぶり泣きながら叫ぴました。夫が気づくと、憲兵達はまた激しく打つのです。私は夫に代わって自分が打たれたいと思いました。しかし憲兵が私を階下 に引きづり下ろしました。これが夫の顔を見た最後でした。

七日間拷問を受けましたが何も話さなかったので、憲兵は私を釈放するしかありませんでした。家に帰った後、夫が心配で何度も憲兵隊に行きましたが入ること を許されず説明してもくれませんでした。その後、夫がハルビンの憲兵隊に送られたと間いたので探しに行きましたが、探し出すことはできませんでした。きっ と憲兵隊に殺されたのだと思い、一人で生活することもできず、憲兵がまたやってくるのも恐ろしかったので、ハルビンの実家に帰りました。憲兵の目から逃れ るため、私はハルビンで名前を郭敬蘭と変え、生年月日も1922年1月6日から1925年1月6日に変え今に至っています。

夫が捕まった後、父が憲兵隊の通訳を人から紹介してもらい、「朱子盈たちは平房の監獄に送られた」ということを聞き出しました。その後私は列車で平房に行 きました。通りで老人に監獄への道を聞くと、娘さん何しに行くんだと言います。夫を探しに行くと言うと、行ってはいけない、命がないぞと言うので驚いて 帰ってきました。

実家では、母と私、弟妹など一家六人が兄のわずかな収入に頼って暮らしました。父もまたその時には亡くなっていたからです。夫や私が捕まったその日、同志 呉殿興はかろうじて逃げ翌日私の実家に立ち寄ったところを追ってきた憲兵隊に捕まりました。その時私の父も引っ張って行かれ七一日間憲兵隊で拷問を受けた のです。その後釈放されましたが、拷問としてトウガラシ水を飲まされたことが原因で家に戻ってから喀血し、釈放されてから一年もたたないうちに亡くなった のです。働き手を失い、母も針仕事で家計を支えましたが兄の収入だけでは毎日食うや食わずでした。

そのころ私は、どこにいても何も手につかず一日中泣いていました。いつも心が重苦しく、夜はしばしぱ悪夢にうなされました。夢の中では、棒にくくりつけら れ頭から血を流し、全身傷だらけなのです。こうした精神的苦痛がずっと続いたせいで、二年ほどすると喉にこぶができ、だんだん大きくなってこのようになり ました。また拷問を受けたことで、腰足は曲げることができなくなりました。いつも痛みがあり薬を欠かすことができません。特に棒で殴られた手首は、ちょっ と重さのあるものは持つことができず、不自由な生活を余儀なくされました。生きていくのが辛かったです。それでも夫がある日突然私の元に帰ってくるのでは と、いちるの望みを抱いていました。しかし東北が祖国に戻り、平房の監獄が爆弾で平らにつぶされても朱子盈は戻ってきませんでした。私の希望は失われまし た。私はもう生きていたくありませんでした。母と兄が、頑張って生きて行かなけれぱだめだと私を諭し、兄の同級生も励ましてくれました。それが後の夫で す。彼は私を非常によく理解し同情し慰めてくれ、こうして私はやっといきていくことができるようになりました。忙しければ忘れていられます。ちょっと暇が できると朱子盈の姿が浮かぶのです。

1950年に、朱子盈は731部隊で殺されたという庄克仁からの手紙を受け取りました。それを読んだあと胸は張り裂けそうでした。なんという無残な死に方 だろう。凄まじい拷問にあっただけでなく、生きながら人体実験の実験台にされるとは。どうしてこんな目にあわなくてはならないのか。夫は二日二晩私ととも に泣いてくれました。私は憎みました。日本人を憎み、侵略者を憎みました。

1986年、侵日軍第731部隊罪証陳列館館長の韓暁さんが私を探し当て、「もと日本陸軍が細菌兵器を準備し使用したことにより起訴された時の裁判資料」 の中の「特移扱い」という情報によって、夫とこの事件の他のメンバーのその後を探り当てることができたと伝えてくれました。

殺人を犯したならば命で償わなけれぱなりません。法律の裁きを受けねばなりません。日本は中国を侵略し、焼き、殺し、奪いました。死傷者は3600万人に のぼると言われます。この歴史を拭い去ることはできません。私たちは戦争に勝ち、侵略者たちは血塗られた武器をその手から放しましたが、しかし私たち人民 は受けた恥辱を洗い流してはおりません。侵略者たちは相変わらず歴史を勝手に改ざんし、中国人民はいまにいたるも補償を受けてはいないのです。

以上申し上げました私の経歴について、これを聞いた日本の皆さんはきっと私を擁護し支持して下さるものと思います。歴史は変えることはできません。過去に 学んで未来を作っていくのです。歴史の悲劇を二度と繰り返さないために、私たちがともに平和を手にするために、法廷に、司法に携わる皆様に、法律に厳格に のっとって過去の歴史を裁いて下さるよう求めます。日本政府に対しては罪を認め、殺された中国人に補償するよう求めます。
(裁判所に提出した陳述書より)

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