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楊 宝山陳述書

1932年9月16日、銃を持った日本軍が突然平頂山村にやってきた。そしてその日の朝、一人の日本兵が我が家にやってきて、「今日我々はここで射撃訓練 を行う。流れ弾に当たると危険なのでみんな牛乳屋に避難して欲しい。訓練が終わり次第写真を撮ってあげるよ」と言いました。私は今まで射撃など見たことが なかったし、その上写真まで撮ってくれると言うので、うれしくなって早く行こうと父と母をせきたてました。

私たち一家が村の西南方向の崖下の平地に着いた時には、そこはもう平頂山の村民でいっぱいでした。ちょうど私たち一家の前に日本兵が立っていて、その脇に は黒い布で覆われた物が置いてありました。私はそれがてっきり写真機だと思い嬉しくなって、父に「うちが写真機に一番近いよ」と言いましたが、父は答えて くれませんでした。この時高く伸びた雑草が私の目にとまりました。撮影の邪魔になると思い、駆け寄って引き抜こうとしました。すると銃剣を持った日本兵 が、元のところへ戻れと威しました。

しばらくすると、あの黒い布がさっと取り払われました。なんとそれは機関銃だったのです。突然それが火を噴き、一斉掃射が始まったのです。母は私をがばっ と抱きよせると、私に覆いかぶさるようにして二人重なり合って地面に伏せました。周囲には泣き声、叫び声、銃声が充満していました。私は母の下敷きになっ たまま母さん、母さんと叫んでいました。母は弱々しい声で答えてくれました。しばらくすると又銃声が聞こえて来ました。怖くなって又母さん母さんとと叫び ましたが、母は何も答えてくれませんでした。やがて母の体から何かが私の顔に滴り落ちてきたような気がしました。それが口の中へ流れ込みしょっぱく感じま した。これは母さんの血だ、母さんは死んでしまったのだと思いました。そのショックと私も弾に当たり、その痛みに耐え切れず気を失ってしました。

一家は日本兵に殺され、私は独りぽっちになりました。私は10歳になったばかりでした。日本兵から逃れるために流浪生活を続けました。ある時は農家の軒下 で休み、ある時は道端でうたた寝をしたりしましたが、そんな時も決まって見るのは私たち家族団らんの楽しい夢でした。その家族たちとはもう二度と会えない のだ。日本兵に殺されてしまったのだからと思うと悲しくて辛くていつも泣いていました。

生きて行くためにある地主のところで豚飼いをして働きました。ここでもうたた寝をすると見るのは家族の夢ばかりでした。一番苦しかったのは、日本兵に撃た れた弾が私の右ももに残っていたのですが、それでもそのまま働かなければならなかったのです。痛くて我慢できないのに医者に診てもらうお金もなく、我慢で きなくて大声で泣き叫ぶこともしばしばでした。こんな時はいつも日本兵が村民を殺害する光景が目に浮かび、恐ろしくて震えていました。日本兵の追跡から逃 れるため、いつもおどおどしながら逃げ回っていました。

平頂山虐殺事件からもう70年余りが経ちました。私の肉親や3,000人余りの何の罪もない村民が日本兵によって虐殺された光景は今のなお記憶に生々しく 平頂山惨案遺址記念館の累々たる遺骨の前にただずみ、これらの白骨を見ていると、この中に私の肉親もいるのだと思うと、なんとも言えない悲痛な思いに駆ら れます。生き残った私にはこの物言わぬ犠牲者にかわって無念を晴らす責任と義務があるのです。

しかし、当時、訴えたくても中日両国には外交関係がなかったのですから、私が日本へ来て訴訟を起すことが出来るはずがありません。

1972年中日両国は国交を回復しましたが、当時の中国国内事情と私個人の収入では日本に来て訴訟を起すなど到底考えられませんでした。(無理でした)そ れに当時中国国内で国際法や日本の法律知識のある人はごくわずかでした。こういったわけで私たちが日本に対して訴訟を起すことは不可能でした。

1995年3月7日銭其?外相が“被害者個人が日本に賠償請求することに対して、国は干渉しない”と発言しました。

1996年ようやく日本の小野寺弁護士に会うことができ、日本に来て提訴する機会を得たのです。そして日本政府に正義公正の理念を取り戻す訴えを起したのです。

しかし、日本政府はいまなお“時効”だから賠償しなくてもよいと言っているそうですが、こんな道理が通るわけがありません。日本軍国主義が中国を侵略し、 中国に甚大な被害をもたらしたのです。日本政府が中国に来て平頂山虐殺事件に事実を確認し、謝罪、賠償するのが本来の筋道だと思います。

しかし、日本政府はその負うべき責任を回避するどころか、今ごろ提訴しても“時効”だと強調し、裁判所も私たちの訴訟を棄却しました。こんな道理が果たしてまかり通るのでしょうか。

日本の軍隊は3,000人余の何の罪もない村民を殺害しました。日本政府はこの事実を認め、謝罪し、賠償すべきです。認めず、謝罪せず、賠償もしないばか りか“国家無答責”や“時効”を口実に責任を逃れようとしています。こんなことが許されるはずがありません。日本政府がいつまでもこういう態度をとるなら 世界各国の人民、とりわけアジアの人々が決して許さないでしょう。

日本国はこれ以上責任逃れをせず、歴史を直視し、人道と法律の両面から被害者に謝罪し、賠償することこそが中日両国の友好関係を打ち立てる上での唯一の条件であります。

私たち原告三人は日本の軍隊によって殺害された3,000人余りの無罪の村民の代表として日本政府に公正な道理を取り戻すためにやってきました。これは私 たちの責任でもあり、使命でもあります。私たちは9年間法廷闘争を続けてきました。私はもう83歳になりました。莫徳勝さんも80歳、方素栄さんも78歳 みな年をとりました。その中でも私は割に元気なほうですが、行動がままならぬ状態です。莫さんは重病でもう日本に来ることは難しいでしょう。そこで三人の 裁判官先生にお願いがあります。平頂山の遺骨館にぜひ足を運んでいただきたい。そしてご自身の目で白骨をみて確かめてください。私たちは心から歓迎しま す。

裁判官先生、あなた方は日本人、私たちは中国人です。同じ人間同士です。国情は異なり、言語もちがいますが、人間として尊重されるべきであることはみな同 じです。最後に裁判官の皆さんが私たち三人の訴えを聞き、事実と向き合い、正しい判決を下されるよう心から願っております。

私の陳述を終わりにします。ありがとうございました。

陳述人 楊 宝山
2005年2月18日

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