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劉連仁訴訟報告

弁護団事務局長弁護士  森田太三  

原告 劉連仁(後に訴訟承継人として,趙玉蘭・劉煥新・劉 萍)
被告 国

第1 訴訟の概要

1 事案の概要

劉 連仁が,太平洋戦争の戦時中,国の施策により中国から北海道に強制連行されたうえ,過酷な労働を強制され,それに耐えかねて終戦直前に作業場から逃走し, その後13年間にわたって北海道の山中での逃走生活を余儀なくされ,これらによって耐え難い精神的苦痛を被ったとして,国に対し,その損害の賠償を求めた 事案である。原審係属中の平成12年(2000年)9月2日,劉連仁が死亡したので,その相続人である原告らが,訴訟手続を承継した。被告は国のみであ る。

2 事案の特徴

本件は,戦時中の強制連行,強制労働の違法性とともに,劉連仁が逃走した後の戦後の国の保護義務違反が問題となった。

3 訴訟の経過

東京地裁判決は,2001年7月12日に言い渡され,戦時中の国の責任は国家無答責と除斥期間で退けられたが,戦後の保護義務違反と除斥期間の適用排除を認めて,国に金2000万円の損害賠償を認めた。

しかし,東京高裁判決は,戦後の責任について,戦後の保護義務違反は認めたが,除斥期間を適用し,また国家賠償責任における相互保証主義を理由として原告の請求を棄却した。

原告は上告したが,最高裁第2小法廷は,2007年4月27日に上告棄却,上告不受理決定を行った。これは同日なされた西松建設に対する第2小法廷の判決に続くものである。

4 訴訟の争点
  1. 強制連行,強制労働の事実の有無,内容
  2. 戦時中の強制連行,強制労働の不法行為
  3. 国家無答責の適用
  4. 国の安全配慮義務違反の債務不履行責任
  5. 戦後の保護義務違反の不法行為
  6. 除斥期間
  7. 相互保証主義

第2 判決が認定した加害の事実

1 戦争の拡大と労働力の不足

昭和12年7月7日,北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生し,戦線は次第に中国各地に広がり,日本と中国との全面的な戦争に至った(以下「日中戦争」という。)。そして,昭和16年12月8日,太平洋戦争が開始された。

昭和12年以降の日中戦争の本格化は,軍需及び関連諸産業の急激な伸びを招来したが,中国大陸への兵力大量投入の影響もあり,国内では深刻な労働力の不足 を生じた。このため,日本政府は昭和13年4月,国民の労働を義務化し,その労働力を管理統制するための国家総動員法を公布し,昭和14年7月には国家総 動員法4条に基づき国民徴用令が公布され,一般国民が軍需産業に動員されるようになった。そのような中でも,炭坑,鉱山,土木業等における労働力不足は深 刻であり,石炭鉱業連合会,土本工業協会,全国産業団体連合会等の業界団体は政府に対し,事態の打開策として朝鮮人労働者の内地移入を要請した。これを受 けて政府は,昭和14年から労務動員実施計画に移入朝鮮人労働者を計上する等して,朝鮮から日本内地に労務動員した。

2 中国人労働者移入政策の決定

太平洋戦争開始後.日本国内における労務需給は一層ひっ迫の状況を示し,特に重筋労働部門における労働力不足が著しくなってきたため,日本政府は,産業界 からの要請を受け,昭和17年11月27日,「華人労務者内地移入ニ関スル件」と題する閣議決定(以下「昭和17年閣議決定」という。)を行い,中国人労 働者を日本国内に移入して重筋労働部門における労働力不足を補うとの政策を採用した。

日本政府は,昭和18年4月から同年11月までの間に,中国人労働者1411人を日本国内に試験的に移入し,その結果を踏まえ,昭和19年2月28日, 「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」と題する次官会議決定(以下「昭和19年次官会議決定」という。)において,中国人労働者を毎年度国民動員計画に 計上し,計画的な移入を促進することとした。

昭和19年次官会議決定に基づき,日本政府は,昭和19年度国民動員計画において3万人の中国人労働者の供給を計上して,中国人労働者の全面的本格的移入 を実施することとした。この結果,昭和19年3月から昭和20年5月までの間に3万7524人の中国人が日本内地に移入された。

第3 判決(東京地裁,東京高裁)が認定した劉連仁の被害の事実

1 劉連仁の職業,家族構成

劉連仁は,1913年旧暦7月25日に生まれ,1944年(昭和19年)9月28日ころは31歳であった。当時,劉連仁は山東省諸城県柴溝区草泊村(現在 の高密市井溝鎮草泊村)に,妻の原告趙玉蘭と両親,弟4人,妹1人とともに9人の家族で暮らしており,原告趙玉蘭は妊娠中で長男である原告劉煥新を身籠 もっていた。劉連仁の父と劉連仁が出稼ぎ等他家に雇われて農作業をする農夫をして一家を支えていたが,貧しい生活であった。

2 劉連仁が日本内地に連行されるに至った経緯

劉連仁は,昭和19年9月28日ころ,朝自宅を出た直後,日本軍の支配下にあった中華民国臨時政府軍の兵士から銃剣の付いた銃を突きつけられ,理由を告げ られることなく同行を求められた。劉連仁は,2日がかりで徒歩で高密市へ連れて行かれ,牢獄に収容された。このとき劉連仁同様高密の牢獄へ集められた中国 人は200余人で,高密の牢獄は日本軍が管理していたと劉連仁は認識している。翌日,劉連仁らは,高密の牢獄から高密駅に縄で縛られて連れて行かれた。高 密駅において,劉連仁ら連行された中国人のうち約100人が逃走を企てたが,武装した軍隊が銃剣で刺しあるいは発砲する等したため逃走は成功せず,その際 数人の中国人が負傷し,死亡した者もあった。逃走事件の後,劉連仁らは,日本軍から「おまえたちは青島で飛行場を造るために狩り出されてきた」との説明を 受けた。劉連仁らは,同行から約3日後,武装した日本兵と中国兵の監視の下,高密駅から列車に乗せられ,青島に連行された。この間,劉連仁らは食べ物や水 を一切口にできなかった。

劉連仁らは,青島の労工訓練所である大東亜公司に収容されたが,同所は華北労工協会の建物で,日本兵が監視しており,周囲には電流を流した鉄条網が張り巡 らされていた。同所に収容された中国人は約800人になっていた。劉連仁らは,同所で1日2食の食事(1食につきとうもろこしで作った饅頭1個)を与えら れ,軍用シャツ1枚とズボン1着,ゲートル,布団(麻袋に綿を入れた縦横1メートル弱四方の正方形のもの)1枚の支給を受けた。

劉連仁らは,連行後,青島を出航するまで,日本へ連れて行かれることについて正式な説明を受けたことはなく,また,日本において働くことについて同意を求められたこともなく,日本における労働条件などについても説明を受けなかった。

明治鉱業から中国人労働者受領のため青島に派遣された係員は,華北労工協会青島訓練所で,明治鉱業に割り当てられた,劉連仁を含む200名の中国人労働者を受領した。

劉連仁ら約800人は,上記青島の収容所に約6日間収容された後,同年10月22日,青島港において貨物船プルト号に乗せられ,船底の船倉に詰め込まれて 日本へ連行された。貨物船には昭和鉱業所から派遣された引率責任者1名が乗船した。船倉には鉱石が積んであり,劉連仁らはその上にむしろを敷いて寝起きし た。劉連仁らはここで初めて通訳から日本に連れて行かれることを聞かされた。劉連仁らは青島で乗船する前にとうもろこしで作った固い饅頭(うおうお頭)が 2個が与えられただけで,水は支給されなかった。同月28日,劉連仁らを乗せた貨物船は下関港(劉連仁の記憶では門司港)に到着した。下関港には,明治鉱 業に割り当てられた中国人労働者200人の受入れのため,明治鉱業戸畑本社から4名,昭和鉱業所から6名の社員,北海道の函館水上署,深川警察署の警察官 各1名が派遣されていた。

劉連仁ら200人は下関港に到着した当日に列車に乗せられ,北海道雨竜郡沼田村幌新太刀別所在の昭和鉱業所に向かい,同年11月3日,昭和鉱業所に到着し た。その間,昭和鉱業所から派遣された社員が車両の前後に配置されて監視し,また,下車等をするごとに酒田警察署,青森水上署,函館水降雨署,深川警察署 など現地の警察官も援助した。昭和鉱業所の宿舎への収容には,深川警察署長,特高主任以下の深川警察署警察官が立ち会った。

3 昭和鉱業所における労働の実態

劉連仁らは,昭和鉱業所に到着して数週間後から,炭坑内における石炭の掘削及び運搬の作業に従事した。劉連仁らの作業時間は,昼夜2交替制で12時間であ り,朝6時過ぎに作業現場に行き,夕方宿舎に戻った。炭坑の中での休憩は,昼食時に1度,10数分あるのみであった。仕事にはノルマが課せられ,それが終 わらなければ日本人の監督から棒などで暴行を受けることもあり,労働時間を延長させられた。休日はなく,2週間に1度昼夜の班交替が行われる際には,連続 して24時間働かされた。

衣服は,日本に連行される前に,軍用シャツ1枚とズボン1着,ゲートルの支給を受けていたが,昭和鉱業所に着いた後,地下足袋1足と厚手の作業服上下1 着,軍手,藁で編んだ作業手袋の支給を受けた。外での作業のときには藁で編んだ草鞋を履いて作業をしたが,この草鞋は,ぼろぼろになった者から順次支給さ れた。タオルは正月に1枚支給された。

寝具は,事業場に着いてから新たに支給されたものはなく,藁で編んだござの上に青島で支給された布団1枚を掛け,就寝した。炭坑内で労働するようになって からの食事は1日3食で,小麦粉で作ったこぶし大の饅頭が1食に1個与えられ,野菜や肉類,汁類は与えられないことが多かった。このため,中国人労働者は 常に空腹状態で,監視の目を盗んで道端の雑草を食べる者もいた。劉連仁の体重は,青島で測定したときには90キログラム近くあったが,炭坑に入る前に計測 したときには50キログラムくらいに減少していた。

昭和鉱業所の宿舎は,木造2階建ての建物で,そこに劉連仁ら200人の中国人労働者が寝起きした。ストーブはあるものの燃料の石炭は少なく,部屋の建物に 隙間が多かったため,部屋の中は十分暖まることはなかった(上記事業場報告書には「1日石炭3トン使用」,「隊長申出により自由」とあるが,そのような事 実はない。)。当初1,2階に100名ずつ配置されたが,寒いため全員2階に移動し,2人ずつ身を寄せあって就寝した。

炭坑での労働は,埃や汗で体が相当汚れたが,昭和鉱業所に着いてから5,6か月くらいの間は風呂に入れず,中国人の間で疥癬が流行した。着替えがないため冬は洗濯はできず,劉連仁らはのみやしらみに悩まされた。

宿舎の周りに高さ3メートルくらいの板壁が設けられ,宿舎は寮長のほか,指導員と称して昼夜交替で日本人が各2名宛で監視していた。事業所には深川署の専 任の警察官が常駐していた。宿舎から坑口への徒歩による往復には昭和鉱業所の監視がついた。劉連仁らが炭坑から宿舎に戻ると,宿舎にはすぐに鍵がかけら れ,外出はできなかった。劉連仁の前にも,何人かの中国人労働者が逃走したが,地理が判らず,すぐに捕らえられた。捕らえられた後は警察署に1週間ほど連 行され,宿舎に戻ってからも3日間は食事が与えられなかった。

明治鉱業と華北労工協会との間の契約では,供出された劉連仁らの賃金は1か月の訓練期間経過後は1人1日5円及び出来高払(食事付)とされていたが,劉連仁は明治鉱業から賃金について説明を受けたこともなく,実際の支払を受けたこともなかった。

昭和鉱業所に連れて来られた200人の中国人労働者のうち,9人が稼働中に死亡した(病死4人,公傷による死亡5人)。

4 劉連仁の逃走から発見まで

劉連仁は,過酷な労働,日本人の監督から日常的に受ける暴行,激しい飢えに耐えかね,日頃から逃亡することを考えていたが,昭和20年7月30日ころの 夜,他の中国人労働者4名とともに昭和鉱業所の作業所から北海道の山中に逃走した。劉連仁らは,日本人に発見されると事業所に連れ戻され,日本人を殴った ことに対して報復を受け,殺されるのではないかと考え,発見されないように数日間は夜は一睡もせず,明け方に仮眠をするなど,細心の注意を払った。劉連仁 は,逃走後約1か月したころ山里に出て日本人に発見され逃げる途中,他の2名と離れてしまい,その後は3名で逃走を続けたが,昭和21年4月ころにはその 2名とも離ればなれとなり,以後は劉連仁ただ1人で北海道の山中を逃走した。

逃走中,劉連仁は,木の芽,雑草,キクラゲ,椎茸などを食べ,山水を飲み,近くの農家の畑や納屋から少量の食料,ナタ,ノコギリ,ヤカン等の道具やマッチ を取り,海辺では昆布を食料とするなどした。衣服もぼろぼろなため,飼料の入っていた麻袋を被ったり,案山子が着けていた布切れや紙くずを拾って体に巻き 付け,靴がないため藁や木の皮を集めて紐で巻き付けて足に履いた。

1年のうち半年以上は,雪の中の狭い洞穴での生活を強いられ,その大部分は完全に雪に閉じこめられていた。洞穴では,立つこともできず,膝頭を両手で抱く ようにし,その上に顎を載せて体を動かさずじっとしている日が続いた。横になれば身体が湿り病気になるため,睡眠は座ったままとった。夏は,日本人に発見 されないよう,毎日のように居場所を変え,冬も1年ごとに洞穴を掘る場所を変えるなど,常に日本人に発見されないよう警戒を緩めなかった。熊に遭遇したこ ともあり,熟睡することはできなかった。

劉連仁は,逃亡中に2回自殺を図ったが,いずれも失敗に終わった。年を重ねるごとに身体は弱り,足は霜やけや凍傷になり,関節炎,気管支炎,肺炎,胃腸炎等の症状に冒された。

逃走してから約12年6か月経過した昭和33年2月8日,劉連仁は,北海道石狩市当別町宇材木沢の山中で猟に来ていた近くの村の住民によって洞穴にいると ころを発見されて警察に通報され,翌9日,劉連仁の潜んでいた洞穴から雪の中を徒歩で30分ほど進んだ地点まで逃げた所で数人の警察官らによって保護され た。

5 劉連仁発見後の日本での状況

劉連仁は,昭和33年2月9日,警察官らにより保護ざれた後,派出所に連行され,翌10日には,札幌市内の警察署等に連行された。

同月25日,劉連仁は,札幌市出入国管理事務所から出頭要求を受けたが,自分を不法残留者として取り扱っているものと受け取り,出頭要求を拒否した上,同 月26日,日本政府当局が自分を不法残留者として取り扱う態度に抗議し,過去日本で14年間受けた肉体的,精神的な損害の補償を明治鉱業と日本政府に対し 強く要求するとの内容の,「日本政府にもの申す」と題する抗議声明を発表した。

6 日本政府の対応等

昭和33年3月25日,参議院予算委員会第2分科会において,板垣修外務省アジア局長は,劉連仁が明治鉱業に雇用されていた旨及び中国人労働者の名簿については終戦後のどさくさで原本は焼却したか紛失したかしてなくなった旨答弁した。

同年4月9日,衆議院外務委員会において,中国人労働者の強制連行の事実の有無について,岸信介首相は,「政府として当時の事情を明らかにするような資料 がございませんし,それを確かめる方法が実は現在としてはないのであります。あの閣議決定(昭和17年閣議決定)の趣旨は,そういう本人の意思に反してこ れを強制連行するという趣旨でないことは,あの閣議のなんでも明らかでありますが,しかし事実問題として,強制して連れてきたのか,あるいは本人が承諾し て来たのか,これを確かめるすべがございませんので,政府として責任を持ってどうだということを今の時代になって明らかにすることはとうていできないと思 います。」との答弁を行った。

それに続き,外務省報告書の存在について,松本瀧蔵外務政務次官は,「そういったものがあるということを承ったことはございますが,外務省にはそういう書類は今残っておりません。」旨の答弁をした。

さらに,劉連仁に対しての慰労の具体的手段に関する質問に対し,岸首相は,政府として劉連仁が約13年間の逃走生活で強いられた苦労を認め,人道的な立場から劉連仁が日本に滞在している間十分な待遇を行う意向を明らかにした。  

劉連仁は,同年4月10日に中国へ出航する予定となっていたが,当時の愛知揆一内閣官房長官から,「劉連仁さんには戦時中日本に入国され,明治鉱業所に入 られて以来いろいろと苦労をされたことと存じます。殊に大多数の華人労務者の方は終戦後すぐ帰国の取計いをしたのですが,貴方は山の中に入っておられてそ のことを知る由もなく,長い間苦労されたとのことで,まことにお気の毒に存じます。」等の記載のある手紙と現金10万円の入った封筒を渡されたが,劉連仁 は受領を拒否し,翌9日,「日本政府に対する賠償を含む一切の請求権は,将来中華人民共和国政府を通じて行使するまで,これを留保する」として,日本政府 が負うべき責任を負わない態度をとっていることを非難する声明書を日本政府に提出した。

7 劉連仁の中国帰国後の状況

劉連仁は,昭和33年4月10日,白山丸で東京港を中国に向けて出航し,数日後,故郷である山東省高密市井溝鎮草泊村へ,約14年ぶりに帰郷した。劉連仁 が日本に連行された後,同人の妻である原告趙玉蘭は,男子(劉煥新)を無事出産したが,働き手を失った家族8人は生活に困り,妹は年季奉公に出されてい た。父親は,劉連仁が連行されてから9年日に,母親は,劉連仁が帰国する1年前に死亡していた。劉連仁は,約13年間にわたる逃走生活の影響で,体が弱 り,関節が痛み,また,夜寝ていても悪夢にうなされる,咳が止まらないなどの後遺症が残った。

劉連仁は,昭和33年4月に帰国した後も,日本政府に対して謝罪と賠償を求めたいとの気持ちを持ち続けていた。劉連仁は,昭和33年4月29日付け及び同 年12月20日付けで,日本の支援団体に対して手紙を送ったほか,中国紅十学会を経由して日中友好協会代表団団長に宛てた昭和35年(1960年)5月 16日付けの手紙の中で,日本政府が自分の損害を賠償しないことについて強く非難した。平成6年,劉連仁は,日本の弁護士に初めて会い,日本に対して裁判 を起こして日本政府の責任を追及することが可能であることを示唆され,平成8年3月25日,本件訴えを提起した。

第4 判決で勝ち取った法律上の争点

1 戦後の救護義務違反の不法行為については,東京地裁判決,東京高裁判決とも認めた。
高裁判決―「ポツダム宣言受諾後,連合国最高司令官の間接管理方式の下にあった国は,終戦直後に調印した降伏文書により,現に日本国の支配下にある一切の 連合国俘虜及び被抑留者を直ちに解放し,その保護,手当て,給養及び指示された場所への即時輸送のための措置を採ることを命じられ,そのためのこれらの者 の所在を示す表の作成も命じられていたのである。そして,一方で,昭和17年閣議決定による行政供出の方法によって,太平洋戦争の遂行という目的のため に,国策として,その意思に反して強制的に日本国内に連行され,強制的に労働に従事させられた者については,降伏文書に調印することによって,これらの者 を強制連行した目的自体が消滅したといえることからすると,国は,降伏文書の調印とそれに伴う強制連行の目的の消滅により,強制連行したことによって条理 上当然に課せられる原状回復義務として,強制連行された者に対し,これらの者を保護する一般的な作為義務を確定的に負ったものと認めるのが相当である。」

2 相互保証について

東京高裁判決は,戦後の国の救護義務違反を認めながら,相互保証を理由に,賠償請求権を認めなかった。すなわち,

国家賠償法6条は「この法律は,外国人が被害者である場合には,相互の保証があるときに限り,これを適用する。」と規定している。中国の国家賠償法でも, 我が国と同じように相互保証の規定がある。ところで,昭和22年10月27日から発見・保護された昭和33年2月9日までの期間においては,中国において は政策として国家無答責の法理が存在し,当然のことながらその期間に中国の国家公務員の違法行為によって日本人が被害を受けても,中国に国家賠償を認める 法的根拠は存在しなかったものであり,我が国と中国の間には国家賠償につき相互の保証があったということはできない,とした。

3 除斥期間の適用の排除又は制限について

東京地裁判決は,国は,自らの行った強制連行,強制労働に由来し,しかも自らが救済義務を怠った結果生じた劉連仁の13年間にわたる逃走という事態につ き,自らの手でそのことを明らかにする資料を作成し,いったんは劉連仁に対する賠償要求に応じる機会があったにもかかわらず,結果的にその資料の存在を無 視し,調査すら行わずに放置して,これを怠ったものであり,劉連仁の被った被害の重大さを考慮すると,除斥期間の制度を適用してそのような国の責任を免れ させることは,正義公平の理念に著しく反しており,国家として損害の賠償に応ずることは条理にかなっているとして,除斥期間の適用は制限するのが相当とし た。その上で,劉連仁の被った精神的苦痛の程度は筆舌に尽くしがたい過酷なものであったとし,劉連仁が被った精神的損害を慰謝するための金額は,2000 万円を下回ることはないと判断した。

しかし,東京高裁判決は,一審判決の理由を認めなかった。

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