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【強制連行東京第二次訴訟】李万忠意見陳述

1998年5月22日に東京地裁103号法廷で第1回弁論で原告の一人李万忠さんがおこなった意見陳述です。

ただいまより、中国人の全ての強制連行・強制労働被害者を代表して法廷で意見を述べさせて頂きます。
日本の侵略軍は、中国で中国人を捕らえ労働させました。私は、民族の尊厳を、そして賠償を求めます。私の血と涙に染まったあの忘れがたい苦難を思い起こすために。

1、
一九四二年三月、日本の侵略軍は、河北省大清河北面に侵入したとき、たくさんの労務者を捕らえ塘沽の収容所に強制連行しました。当時日本軍は、働き盛りの 若者を捕らえておりましたが、たくさんの中国人労務者はこういう状況の中で捕らえられたのです。私は、当時民間救護隊の通信員でしたが、同じように捕らえ られました。彼らは、私の手を後ろ手に針金で強く縛り上げたので、手首に傷ができたくさん血が流れました。当時の傷は未だに私の手首に残っております。
この傷跡は、心の傷とともに未だに残っています。そして、常に五十数年前の奴隷にされた災難を思い起こさせるのです。

2、
塘沽では、日本軍が毎日銃剣を持って見張りながら労働を強いて、ある者は船や汽車の荷揚、荷おろしをさせられ、またある者は道路建設にあたらせられまし た。非人道的な地獄のような生活は、大変苦しく、いつも死人や病人がでました。三日にあげず逃亡者がでましたが、捕らえられて連れ戻された人は日本軍に よって軍刀で殺されたり、銃剣で刺し殺されたりしました。

半年余り経つと、捕らえられた労務者は多くなってグループに分けて日本に護送されました。

3、
私は一九四四年二月船に乗せられて東南の方角に三日二晩向かったかと思うと、着いたところは日本の下関港でした。

船の上で船酔いをしたり体の調子を崩したり顔色が悪かったりすると、病人と看做され、日本人はその中国人を大海に投げ捨てました。当時私はそれがいつ自分 に廻ってくるのかと恐れ、同胞たちが大海に投げ込まれるのを見て大変哀しみました。そして、いつか自分も殺されるのではないかと恐れました。

船を降りると、今度は汽車に乗せられ、二晩北に向けて走ったかと思うと群馬県の後閑駅につきました。

汽車を降りると中国人労務者は、六つグループに分けられ、南側の山間に護送されました。ここがまさに利根川の水力工事現場で全長十五キロ、六つのグループはそれぞれ約二・五キロを隔てて、労働させられました。

そして、皆山間に住まわせられました。昼夜分かたず武装警察が私たちがトンネルを掘るのを巡回して見張っていました。

食料は、米糠の団子でお腹一杯にはなりませんでした。当時、私は十八歳でこれくらいの食料では、空腹を満たすことはできませんでした。お茶は言うまでもな く、飲み水すら与えられませんでした。喉が渇くと現場の川の水を手ですくって飲んでいました。また、その汚れた水で顔を洗い手を洗っていました。

冬は綿の服も与えられず、夏は単衣も与えられることはありませんでした。夏には、ただ一つ支給されたフンドシ一枚で裸のまま労働させられました。私たちは 休むことも許されませんでした。冬は大変寒かったのですが、綿の服もなく労務者たちはセメントの袋を服代わりにして着ていました。

当時、私たちが住んでいたところは、四方を鉄条網が張り巡らされ逃げることは不可能でした。日本の見張りの現場監督と警察は手に棍棒と皮の鞭をもって毎日早く仕事をさせようと労務者たちをぶち、チャンコロ、バカヤロウと罵っておりました。

耐えがたい苦難により工事現場から逃亡したり、山から飛び降りて自殺しようとした者もいました。しかし、ほとんどの者は捕まって連れ戻され後ろ手に縛られ 木につるされ警察によって生きながら殴り殺されました。シェパード(軍犬)に生きながらにして噛み殺される者もおりました。たくさんの労務者が酷い迫害を 受けて、ここで死んでいったのです。中には、監獄に捕らえられ獄中で死ぬ者もおりました。

呉俊発という労務者がいて、その者は私とともに苦難をともにした仲間で、一緒に日本人のために働いておりました。私が病気になったとき呉俊発は缶詰の空き 缶に川の水をくんで温めて飲ませてくれました。中国人の労務者が病気になったときはとてもかわいそうなもので医者の治療も受けられず互いに助け合うだけで した。このようにして私たちは、お互いに助け合ってやっとのことで生き延びることができました。

今日、呉俊発の息子呉旻も来ております。私に付き添って日本に訴えに来ました。なぜならば彼の父の呉俊発は、病気で既にこの世を去っているからです。私は呉俊発の被害の生き証人です。

多くの労務者の中には、さらにトンネルで作業をしていたとき傷を受けて様ざまな障害を負った者や、栄養失調で両眼を失明した者もおりました。

私が先程申しましたように、左腕の傷跡は当時日本兵が針金で縛り上げたときにその針金が骨まで食い込んでできたもので、骨が酷い損傷を受けました。

4、
一九四二年三月から四三年にかけて、私は塘沽で日本兵によって強制的に労働させられました。

一九四四年の二月から四五年にかけて私は日本兵によって日本の群馬県利根川に護送され労働させられました。その間、日本軍と日本の企業が、我々に賃金を支払うことは全くありませんでした。

5、
一九四六年二月の末、祖国の青島市に戻りました。一九四六年七月、物乞いをしながら実家の河北省安次県小麻庄に帰りました。

のちに中国国内で文化大革命が起こったとき私は日本のスパイと看做され迫害を受けました。とても苦しい生活を送りました。日本政府と日本の企業は私に四年にわたって強制的に労働させ私は筆舌に尽くしがたい労苦を味わいました。

日本政府と日本の企業は歴史の事実を正視し、良心に基づいて人権を重んじ誠心誠意被害を受けた中国人労務者に罪を認め賠償をすべきです。

最後に強く申し上げます。我々被害者は、高齢化し病気がちです。もし賠償請求の問題が数年延びたなら生き証人は皆亡くなってしまいます。一刻も早い問題解 決を全て未だ生存する中国人労務者と遺族の共通の願いです。たとえ、数年後労務者たちが皆病気でこの世を去っても遺族が永遠に日本に対する賠償請求のため 闘い続けるでしょう。

日本の労務者の報告書の三百三十二頁百九十二番に私の名前李万忠がありますが、これは動かぬ証拠であることを証明します。

一九九八年五月二十二日
中国人強制連行・強制労働被害者 李万忠

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