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劉連仁の被害について

代理人弁護士 犀川 治

本日の結審に当たり、いまご覧いただいた趙玉蘭の証言を含め、第1審、控訴審を通じて立証してきた劉連仁の被害事実を、今一度整理したいと思います。

1944年、当時31歳だった劉連仁は、妊娠中の妻をふくめた9人家族の大黒柱として一家を支え、貧しいながらも幸せな生活を送っていました。

1944年9月、劉連仁は、突然自宅前から拉致されました。家族に別れを告げる間もなく、後ろ手に縛られ、連行されて行きました。劉連仁たちは、途中、高 密の駅で、必死の思いで逃げ出しましたが、兵士に発砲され、逃げる事はできませんでした。青島では、日本兵の監視する収容所に数日閉じこめられ、その後、 鉱石と一緒に貨物船の船底に積み込まれました。劉連仁は、日本に向かうこの船の中で、残された家族のことばかりを考えていたといいます。

彼が船に乗せられる頃、妻・趙玉蘭は、長男・劉煥新を出産しました。幸せなはずの出産は、厳しい現実に変わりました。夫を失った妻は、産後の体を押して農作業に出て行かなければなりませんでした。

青島を出た貨物船は、下関に到着しました。列車と船を乗り継ぎ、11月3日、北海道沼田町にある明治鉱業の昭和鉱業所に到着し、警察官や特高警察立会のもと、劉連仁たちは宿舎に押し込まれました。

炭鉱内での奴隷労働が始まりました。1日2交代制、短い食事の時間以外に休憩は与えられず、休日もありませんでした。監督する日本人からは、ノルマが達成 できない、日本語が分からない、道具の名前が覚えられないといった様々な理由で殴られました。過酷な労働の後は、宿舎までの長い雪道を、作業服1枚、破れ た地下足袋で歩いて帰りました。疲れて果てて帰った宿舎でも満足な食事はなく90キロあった劉連仁の体重は、50キロにまで減りました。十分な暖房もな く、やせ細った中国人労働者たちは、身を寄せ合うようにして寒さをしのぎました。到着後半年間は、風呂に入ることもできず、そのため、皆、疥癬にかかり、 ノミやシラミに悩まされました。

昭和鉱業所の報告書には、働かされていた中国人200名のうち、死者が9名、負傷者が179名、病気にかかった者の延べ人数が280名であったと記録され ています。わずか9ヶ月の間に、20人に一人が死亡し、10人のうち9人は負傷し、ほとんどすべての者が病気にかかったのです。 この地獄のような境遇に 耐えかね、終戦のわずか半月前の1945年7月30日、劉連仁は脱走します。行く宛もなく、まして海を越えて帰る宛など有りませんでした。この無謀とも思 える脱走に劉連仁を駆り立てたのは、「このままでは殺されてしまう」という恐怖でした。

昭和鉱業所から逃げ出したものの、一緒に逃げた仲間とも離ればなれになり、彼は途方に暮れました。彼は、自殺を試みましたが死ぬ事はできませんでした。残してきた妻や両親、そして、生まれているであろう我が子への想いが、死への衝動を押しとどめたのです。

逃亡している13年間、劉連仁はどのようにして生き続けていたのでしょうか。その一端を知ろうと、我々は、劉連仁の発見現場に行きました。発見現場は、夏 には草が生い茂って足を踏み入れることができず、冬はカンジキを履いて2時間近く歩かなければたどり着けない場所でした。発見現場に行き、我々は、発見さ れる事に対する彼の恐怖心が、いかに大きなものであったかを思い知らされました。そして、その恐怖心の大きさは、劉連仁が逃亡するまでに受けた仕打ちがい かにむごいものであったかを如実に物語っています。

発見の恐怖から逃れるために分け入った山中では、飢えと野獣と寒さがまっていました。獣への恐怖で、劉連仁は熟睡することはありませんでした。寒さをしの ぐため、冬眠するように穴の中で冬を越しました。春になり、穴をでて、歩けなくなった足を少しずつ慣らし、再び場所を変えて逃げ続けました。そのようにし て、彼は、13回、北海道の冬を越えたのです。

故郷の草泊村では、残された妻と子が、歯を食いしばって生きていました。劉連仁の両親は、息子の安否も分からぬまま、相次いで亡くなりました。妻・趙玉蘭 は、夫が生きているのかさえ分からずに、女手一つで息子を育てていました。長男の劉煥新は、父のいないことでいじめを受け、母に父のことを尋ねました。母 は何も言わずに彼を抱きしめ、泣いたと言います。それ以降、劉煥新は、二度と父のことを口にすることはありませんでした。

1958年2月、劉連仁は石狩郡当別町で発見されます。札幌に送られた彼は、そこで初めて戦争が終わったことを知ります。しかし、日本政府は、彼を不法残 留の容疑で送検し、出頭を求めます。国会では、当時の首相や政府高官が強制連行の事実を否定し、劉連仁は任意契約で日本に来たのだと強弁します。その態度 とは裏腹に、日本政府は、10万円、いまの価値にすると約200万円の金一封を劉連仁に渡し、事件をうやむやにしようとします。しかし、劉連仁はそれを拒 否し、1958年4月に帰国します。

貧しさに耐えかね、親戚を頼って吉林省に移り住んでいた彼の妻と息子は、劉連仁発見の報を聞き、半信半疑で、天津へと向かいました。塘沽の港で夫と妻は再 会し、父と13歳の息子は初めて顔を合わせました。劉連仁は、言葉にならない声を発して、妻と息子を抱き寄せ、ただ泣いていました。彼は、長年の孤独な逃 亡生活で言葉をしゃべることさえできなくなっていたのです。

故郷へ帰った後も、劉連仁と家族の苦しみは続きました。言語障害、対人恐怖などで、普通に人と接することができず、以前のように重い農作業もできなくなっ ていました。夜、悪夢にうなされて飛び起き、庭を徘徊するといったことが続きました。そのため、妻・趙玉蘭の苦労は却って重くなりました。以前は一家の大 黒柱であり、帰国したとき45歳とまだ働き盛りの年齢であった劉連仁は、どのような想いで帰国後の日々を過ごしていたのでしょうか。おそらく情けなさと、 歯がゆさ、そして悔しさで一杯だったのではないでしょうか。悪夢にうなされる苦しみは死ぬまで続きました。山林に入るとパニックを起こすという逃亡生活の 後遺症も癒えることはありませんでした。

そして、2000年9月2日、劉連仁は、東京地方裁判所での勝利判決を聞くことなく、87歳で亡くなりました。

第1審判決が言うように、劉連仁の被った被害は筆舌に尽くしがたく、我々の想像を遙かに超えるものです。しかし、劉連仁事件にかかわる我々は、やはりもう一度、彼の被害を想像し、その被害と真剣に向き合わなければならないと思います。

31歳で拉致された劉連仁は、帰国した年には45歳になっていました。裁判官の皆様の31歳から45歳までの人生には、どんな出来事があったでしょうか。 本日、この法廷にいる皆さんの、14年前から今日までの間には、どんな思い出があるでしょうか。新たな職場や友人との出会い、恋愛や結婚、出産などの嬉し いこともあれば、失恋、仕事の失敗、親兄弟との死別など、悲喜交々の出来事があったことだと思います。劉連仁もそのはずでした。生まれたばかりの我が子を 腕に抱き、名前を付ける。両親との別れを惜しみ、日々の生活を乗り越えながら、妻とともに子供の成長を見守る。しかし、劉連仁は、生まれたばかりの子を抱 く事もできず、両親に別れを告げる事もできませんでした。喜びと悲しみを家族とともに分かち合うという人間として当たり前のことが奪われたのです。それを 奪ったのは誰だったのでしょうか?劉連仁の奪われた14年間を自らのことに置き換えたとき、皆さんは、人生の一部を奪った者を決して許すことはできないは ずです。

このような悲惨な目に遭いながらも、劉連仁は、死ぬまで日本に対する恨みや憎しみの言葉を口にすることはありませんでした。それどころか彼は、いつか日本 政府が誠実な対応をしてくれると信じて疑いませんでした。そして、裁判所が正義を実現してくれると信じながらこの世を去りました。劉連仁は、最期まで、人 間の良心というものを信じていたのだと思います。裁判所におかれましては、亡き劉連仁の被害を直視し、彼が寄せた裁判所への信頼に、人間の良心への信頼 に、人として正面から向きあっていただきたいと思います。
以上

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