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6・強制連行・強制労働の事件・・・張宝恒さんの被害

張さんは1924年2月生まれで、強制連行された当時(1943年)、妻と息子と3人で暮らし、農業をしていました。張さんは八路軍の地下組織の幹部をしており、上部機関から情報を収集するため、敵である日本と商売をして、敵の内部にはいるよう命じられ、大盤石の近郊で酒やタバコを売りながら、八路軍の地下活動をしていました。

張さんは1943年3月(旧暦)ころ、八路軍の事務所から家に帰る途中、村の中を歩いている時、突然日本兵2~3人と中国人清郷隊に捕まり、手を縛られて八路軍に情報を提供しているのではないかと警察に連行されました。それから張さんは警察に1ケ月にとめおかれ、棒やむちで殴られるなどの拷問をうけましたが、何も話しませんでした。警察署には他の中国人労働者もいれられていて、監視をうけていましたが、石家庄労工教育所に送られました。張さんたちはそこで20日間、洗濯の仕事などをさせられました。そこで教習所の日本人から「労働者として日本に送られること。2年間炭坑で働くこと、日給は2円で、行きたくなくても行かなければならないこと」を聞かされ、仕方なく従いました。張さんらは500人ほどの中国人労働者とともに汽車で塘沽まで護送されました。その途中で逃げようとして殺された者もいます。張さんらは塘沽に1週間滞在し、他の700人あまりの人たちとともに日本の貨物船に載せられて塘沽港から銃をもった日本兵が監視する中、7日間で日本の門司港につきました。そこから汽車とバスで福岡県田川鉱業所第二坑に連れていかれたのです。

宿舎にいれられた張さんらは20日間ほど、炭坑で使う道具の名前や使い方を教えられ、その後は2組にわけられ田川坑に行くことになりました。張さんがいれられた宿舎は木造の建物で奥行きの長い部屋に100人以上が詰め込まれました。床は板張りで敷布団はなく、石家庄労工教育所で配られた服を着て、前にもらっていた掛布団を使っていました。宿舎の周囲は塀で囲まれ、出入り口には警察官の詰め所があって、銃を持った日本の警察官が監視をしていました。1日3回の食事はとても粗末で毎食トウモロコシを材料とした饅頭がふたつ配られるだけでした。張さんが一番つらかったこととして空腹をあげています。仕事は石炭掘り、坑道づくり、発破の三種類でした。労働時間は最初8時間でしたが、次第に増えて、最後は12時間にもなりました。休暇は1日もなく、給料はまったくもらえませんでした。現場と宿舎の往復は日本人の現場監督に監視されていました。作業着と地下足袋は支給されましたが、冬用の服を支給されたことはありませんでした。

1945年8月ごろ、作業現場にきたアメリカ人から、日本が降伏し、自分らが解放されたことを知らされました。張さんらは会社に給料の支払いを求めましたが、小切手を手渡され、天津の日本の銀行で現金に替えるようにいわれましたが、張さんが中国に帰った時、天津の日本の銀行はなくなっていました。

張さんは1945年10月に日本の船で塘沽の港に着きました。天津で徴兵中の国民党軍に捕まりましたが、逃げだし、汽車に乗ってふるさとの村に帰りつきました。

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