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原告証人尋問 黄有良さん

1月15日、海南島戦時性暴力被害訴訟の原告の黄有良さん(80歳)の原告本人尋問で証言した記録です。

黄有良さん尋問記録

Q リー語ではお名前はなんと発音されますか。
A ウィユーリャンです。

Q 黄さんが日本軍に捕まったときに住んでいた住所はどちらですか。
A 最初に捕まったのはカバ村というところです。

Q その当時の家族構成はそのようなものでしたか。
A 4人家族で、父、母、妹と私です。

Q 当時お父さんはどんなお仕事をされていましたか。
A 父は農民でした。母は何も仕事をしていませんでした。

Q お母さんがお仕事をしていなかった理由はなにかありますか?
A 目が不自由だったので、仕事ができませんでした。

Q お友達や妹さんとどのような遊びをしていましたか。
A 友達がみんなうちに来て、妹とも一緒に遊んでしまいした。

Q 黄さんが見た日本軍はどんな印象でしたか。
A 日本軍が村に入ってきたときには、刀を持って、至るところで物を略奪したり、家を焼いたりしていました。

Q 村の人たちや黄さんのご家族は、日本軍のそのような行動を見て、どのような対応をしましたか。
A 日本軍に捕まると恐いので、山の中に逃げて隠れました。

Q 山の中に逃げて、山の中で暮らしていたんですか。
A 山の中にしばらく逃げ隠れていたんですけれども、村の様子が落ち着いたので、また戻りました。

Q 次に黄さんが日本兵に襲われたときのお話を聞かせてください。
A 日本兵に最初に襲われたときは、私は畑で仕事をしていました。そこに10人ぐらいの日本兵がやってきて、取り囲まれて、無理やりにキスをされて、抱きつかれて、そのあと服をはがされて、周囲の何人かの日本兵はニヤニヤしながら見ていました。私は抵抗して腕を噛んだんですけれども、そのときに一人の日本兵が銃剣を出して私を刺そうとしたんです。そういう状態だったので、私はますます暴れました。

Q 暴れた後、どうしましたか。
A そこに上官が来てやめろと叫んで、上官と一緒に、黄さんの家に連れて帰られました。

Q その後はどんなことが起こったんですか。
A その上官がうちに入って、私の衣服を無理やりにはいで、そこで強姦したんです。お母さんは目が見えないもので、何もわからないまま「どうしたんだ、どうしたんだ」と叫んでいたんですけれども、お母さんはどうする事もできずに、私はそのまま強姦されました。お母さんはオロオロしていました。

Q その時お父さんはおうちにはいなかったんですか。
A その事が起こった時は、父は不在でした。

Q 上官は黄さんを強姦した後、どうしましたか。
A 暴行されて、日本兵はそのまま逃げてしまいました。そうこうしているうちにお父さんが帰ってきて、私は近くの家にかくまってもらいました。

Q それからあとは、日本兵は来ませんでしたか。
A その次の日に、2人の日本兵がやってきて、その時は父が帰ってきていていましたから、父と母を地べたに四つんばいにならせて、殴る蹴るの暴行を加えました。それで父と母が耐え切れなくて絶叫したんです。ものすごく大きな声で「助けて」と言った声が近所にも響いて、それが近所にかくまってもらっていた私の耳にも入ってきたんです。

Q その日本兵が2人来たというのは、黄さんを探しに来たのですか。
A たぶん私を探しに来たのだと思います。

Q では娘を探しに来て、暴行を加えられた父母の様子を聞いて、黄さんはどうされたのですか。
A 悲鳴をあげている声を聞いて耐え切れなくなって、私は出てきました。そうしたら、母と父のいる前で、服をはがして強姦しました。

Q その時ほかに近所の人などはいなかったのですか。
A 村の人たちはそういう状況を外から感じ取っていたのですが、恐くて近寄れなくて、何が起こっているのかすごく心配で、遠くから眺めていました。

Q 黄さんは、日本軍に拉致されていますが、このときに連行されたのですか。
A その日はこれらの日本兵は逃げていきましたが、その次の日に連行されました。

Q それはどこへ連れて行かれましたか。
A カバの日本軍の兵営があるところです。

Q それは家からは遠いところですか。
A うちからはかなり近いところで、畑からも見えるところです。

Q 連れて行かれて入れられた建物は、どんなところだったのですか。
A 茅葺きの建物で、どれぐらいの広さかというのは私にはよくわかりません。

Q 黄さんのほかにも女性が誰か入れられたのですか。
A 4人が入れられました。

Q 年齢的にはどれぐらいの方でしたか。
A 私とそれほど年齢に差がありませんでした。

Q 黄さんはその時何歳でしたか。
A 14歳でした。

Q その茅葺きの家は、床はどのような感じでしたか。
A 板ではなくて、セメントみたいな、土間みたいな感じでした。

Q その建物の中には何がありましたか。
A ベッドがありました。

Q ベッドはいくつありましたか。
A 4つ?でした。

Q 窓はいくつありましたか。
A 小さいのが1つです。

Q 部屋の中にあったベッドの位置など、まだ覚えていますか。

A 覚えています。

(平面図を出し、それで解説をする)

Q この部屋の中で、ベッドは、あなたたちが眠る意外にどんな使われ方をしたのですか。
A 強姦されたりしたときに使われました。

Q この部屋意外でも強姦されましたか。
A 部屋の中だけでなく、外でも強姦されている女性がいました。

Q 他の4人とも、強姦されているという可能性はあったのですか。
A 人間でない、牛馬のような扱いを受けたんですけれども、要するに1人入ってきて強姦したら、また代わりの人が来て強姦するという感じでした。日常的に強姦されていました。

Q 黄さんが強姦されているときに、ほかの少女も一緒に強姦されているという事もあったのですか。
A 同時に強姦されている時もありました。

Q 少女達はお互いに慰めあったりといったことはありましたか。
A いろんな少数民族の子が来たので、言葉が通じなかったんですけれども、お互い抱き合って、泣いて慰めあったというのはあります。

Q 1日に何人ぐらいの日本兵が来ましたか。
A 数え切れません。

Q ここでは食事はどれぐらいもらいましたか。
A 1日2食でした。

Q 量はどれぐらいでしたか。
A お椀にひと椀ぐらいでした。

Q 何をもらっていましたか。
A 貝?だとか、お茄子。

Q 穀類は。
A お米のご飯です。

Q こうした日々は黄さんはお腹は空いていましたか。
A いつもお腹いっぱいにはなりませんでした。

Q トイレはどのようにしていましたか。
A 茅葺きの部屋の外に出て、用を足しました。

Q その時に見張りはついていたのですか。
A 見張りはいました。

Q 茅葺きの部屋には鍵はかかっていたのですか。
A かかっていたりかかっていなかったりしましたけれども、必ず外に見張りがいました。
出るときには最敬礼をして出るなどしました。

Q この兵営傍に行ったときに、誰かがリンチなどをされている光景を見たことがありますか。
A 部屋の中にいると外の声がよく聞こえてくるのですが、しょっちゅう絶叫だとか殴られて苦しんでいる声が聞こえてきました。

Q この部屋はご自宅から見えるほどの距離と仰いましたが、ここに入れられている間、そのようなお気持ちでしたか。
A 部屋からは、うちも畑も見えるので、どうしてもうちに帰りたいという気持ちでいっぱいになったんですけれども、そこから逃げ出すことは絶対にできなかったので、諦めていました。

Q この建物の中には、どれぐらいの期間入れられていましたか。
A 2ヶ月から3ヶ月ぐらいだと思います。

Q その間に、ここでお金をもらったりしたことはありますか。
A 何ももらっていません。

Q この慰安所のほかに、どこか別の場所に連れて行かれましたか。
A 藤橋というところに連れて行かれました。

Q それはどうやって連れて行かれたのですか。
A トラックに乗せられて連れて行かれました。

Q その時、同じ部屋にいた女の子たちは全員連れて行かれたのですか。
A 全員一緒でした。

Q どうして藤橋に移されたのか、理由を聞きましたか。
A いろいろ噂としてはありましたが、連行された方からは、何の説明もありませんでした。

Q この藤橋の慰安所は、建物はどんな造りでしたか。
A レンガ造りで、そんなに大きくなかったと思います。

Q 床はどんなつくりでしたか。
A やはり前と同じような、セメントを固めたような土間のような床でした。

Q 窓はありましたたか。
A 小さい窓がありました。

Q この部屋の中は、明かりはどうでしたか。
A 油に火をつけて、ランプのような灯かりをつけていました。

Q 窓はいくつあったのですか。
A 1つ?

Q 大きさは。
A 入り口から入ってまっすぐ行って奥にありました。これぐらいでした。

Q A4の用紙を半分に折ったぐらいの大きさですね。先ほどの兵営の慰安所も暗かったのですか。
A 昼間は茅葺きなので、屋根から光が差し込んでくるので、昼間は灯かりはまったくつけてもらえませんでした。夜はつけました。

Q 藤橋のほうの食事の量はどれぐらいでしたか。
A お椀1杯ぐらいです。

Q トイレはどのようにしていましたか。
A 部屋の隅っこの方に桶のようなものが置いてあって、そこで用を足しました。

Q 身体を拭いたり洗ったりはできたのですか。
A 身体を拭いたり顔を洗いたいときは、入れられている建物の傍に川があったので、見張りの兵隊に身体を拭きたいなどと言うと、連れてってくれました。その見張りは少し中国語がわかったようです。

Q この建物には鍵はかかっていたのですか。
A 見張りがいるのでかかっていませんでした(?)

(休憩)

(41:45~)

Q ここでは4人とも同じ部屋に入れられていたのですか。
A 一緒でした。

Q あななたち以外に人がいたかは知ってますか。
A ほかの部屋はわかりませんでした。

Q カバ村の時と、何か待遇は違いましたか。
A 大体に通っていました。

Q 1日に何人ぐらい来たという記憶がありますか。
A 毎日2、3人が来て、輪姦されました。

Q この藤橋の慰安所で、黄さんが特に記憶に残っている事はありますか。
A 一番つらかったのは、「4本の牛の足の刑」という名前の刑なのですが、地面に四つんばいにならされて、2、3人の日本兵に輪姦されたのが一番辛かったです。

Q それは手は手のひらで地面についたのですか。
A つま先で立って、手のひらを地面に立てて、牛の形とまったく同じような形にさせられました。

Q 手の指は4本ですか5本ですか。
A 4本で立たされました。

Q 親指を抜いた4本の指とつま先で牛のような形にされたんですね。
A そのような体勢にされて、ふらつくと殴られました。

Q その状態で輪姦もされたわけですね。
A こう姿勢のまま輪姦されました。

Q その時には着衣はないのですか。
A 一糸もまとっていません。

Q その体勢は、どのぐらいの時間させられたのですか。
A 長い間して、倒れこみそうになるとまた引っ張り挙げられるので、どれぐらいの時間かわかりません。

Q こういう事をされたのは、1度だけですか。
A ある人は2回、ある人は3回でしたが、そういう事をさせるのは、最も凶悪な日本兵でした。

Q 黄さん自身は1度でしたか。
A 他の人もこのように輪姦されましたが、私を犯した日本兵は一番凶悪でした。

Q 凶悪というのは、どのように凶悪だったのですか。
A 抵抗した場合にそういう刑をさせられました。

Q そういった事をさせられた後、身体の方に異常は起きませんでしたか。
A 強姦された後は意識が朦朧として、ベッドのところに戻されてから、水が欲しいと言って、水を汲んできてもらって、横になっていましたが、お腹の方が痛くて、夜になると流血して、ベッドが血だらけになりました。

Q その時は血は自然に止まったのですか。
A 流血はその時は止まりましたが、その頃から下腹部がずっと痛いのが治りませんでした。

Q 流血したその日は、その後も強姦は止むことなく続けられたのですか。
A 流血がだんだん少なくなってなっていったんですけれども、そういう状態だったために、その後はあまりされませんでした。

Q 藤橋の次はどこかに連れていかれましたか。
A 解放されました。

Q 藤橋にはどのくらいの期間いましたか。
A 1年ぐらいだと思います。

Q そうすると、陳述書の方には違う期間で書いてありましたが、今日仰られたお話の方で正しいのですね。
A カバの方が短くて、藤橋の方が長くいました。

Q 藤橋からは、どのように解放されましたか。
A 親戚に黄文昌という人がいまして、彼が日本軍にいろいろなお米とかを届ける仕事をしていて、彼が、私がここに入れられているという事を知って、そして私がお父さんとお母さんに助けに来てくれと言い、そして黄さんが父母に言ってくれました。

Q そのあとどのような形で助け出してもらったのですか。
A 黄文昌さんが親戚だったので、事情を聞いておうちと相談して、お母さんが亡くなったという理由を日本軍の上官に告げて、連れ戻したいという事で、黄文昌話をつけてくれたのです。

Q 家に戻ってから、どこに逃げたのですか。
A お母さんのお墓を立てて、当日のよる、お母さんとお父さんと妹と一緒に逃げました。

Q 逃げた先はどちらですか。
A ホテイ?というところまで逃げました。

Q そこでは黄さんが慰安所に入れられていたという事は周囲に知られていたのですか。
A ホテイの親戚の人の家に言ったのですが、その親戚には言いました。

Q そのあと、故郷のカバ村には帰ることができましたか。
A 日本が負けてからやっと帰ることができました。

Q カバ村に帰ってからは、村の人の黄さんに対する接し方はどうでしたか。
A 戻ったときに村の人たちからいろいろ責められたりして、ふしだらな女と罵られたりしました。

Q その後黄さんは結婚されましたが、どのような方と結婚されましたか。
A 自分がそういう境遇になって、とても不運だと自分で感じていました。そこにある仲人の方が紹介してくれて、ハンセン病を患っている方を紹介されました。

Q その当時ハンセン病は、村の方達にどのように捉えられていた病気だったのですか。
A 隔離をしなければいけない病気とされていて、山の上の方に隔離されていました。

Q では黄さんも山の上の方に一緒に行かれたのですか。
A 結婚式を挙げましたが、同居はしませんでした。夫は山の上で治療し、私は自宅で婦人病の治療をし、3年経ってから、同居しました。

Q 子どもさんなどは、黄さんの境遇や旦那さんの病気の事で、何か言われたりしたことはありましたか。
A 子どもたちはいじめられたりすることはありました。

Q その時のお気持ちは。
A ひたすら耐えるしか仕方がなかったです。

Q こうした60年以上前の事を、黄さんは今でも思い出す事はありますか。
A もう60年前の事になりますが、一日たりとも忘れた事はありません。夜も夢にうなされます。でも不運だと思って、耐えるしかありませんでした。

Q 当時の映像が脳裡に甦ってくることはありますか。
A 普段意識していようがいまいが、突然ふっと浮かぶことがあります。

Q そういう時、当時の映像がありありと浮かんでくるのですか。
A 父母が殴られている場面とか、忘れることはできません。

Q そうした時に、何か体の変化はありますか。
A いつもそうですが、悪夢にうなされると目が覚めます。ベッドから起き上がる時もあります。

Q 動悸や寝汗などもありますか。
A 動悸もあり寝汗も出て、ベッドの上に座り込んでしまいます。

Q 夜中に起きて、そのまま寝られないときもあるのですか。
A 一端起きると、そのまま寝られない事があります。

Q 運が悪かったという事を話されましたが、人生をあきらめるという気分になってしまうのでしょうか。
A 人生には運が良い時と悪い時があるという事で無理やりあきらめるしかないと思っていましたし、他にやりようがないと思っていました。

Q 裁判長に仰りたい事あれば、お願いします。
A 私は事実を述べたので、その事実に対して、裁判長は答えていただきたいというです。そうでないとこの事件をずっとひきずって、最高裁まで行ったとしても、私の気持ちはおさまりません。そして真摯な謝罪をして、私の身の潔白を証明して頂きたいと思います。

(以下、裁判官からの質問)

Q 今でも(聞き取れず)
A いつも悪夢にうなされると苦しいです。

Q 被害に遭われた当時も悪夢にうなされていましたか。
A 自らの体験ですから一生忘れる事はできません。

Q 今お伺いしているのは、60数年前にも同じような症状があったかを伺っています。
A 精神的苦しみは当時と今とまったく同じです。

Q 結婚後3年間の間に、悪夢などはどうでしたか。
A 別々に暮らしていましたが、今よりその3年間の方が、今より余計に苦しかった時代です。その時には自殺も考えました。

Q これまでの60数年間お伺いして、被害を(聞き取れない)その苦しみが、変わっていないのか、それとも以前に比べて強くなっているのか、そのあたりの変化があるのかを聞いてください。 
A 自分が病気になった時、または過去の事を思い出すときに、特にひどくなります。

Q そうすると、60数年間そうした被害がずっと続いてると考えて宜しいですか。
A 病気や過去の事を思い出すときはひどくなりますが、それ以外のときはそうでもありません。

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