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中国人「慰安婦」海南島訴訟 東京高裁判決要旨

平成21年3月26日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官 金子 誠
平成18年(ネ)第4860号 謝罪文交付等請求控訴事件
 (原審・東京地方裁判所平成13年(ワ)第14808号)
口頭弁論終結の日 平成20年12月25日

判決

原告一覧は個人情報保護のため省略

主文

  1. 本件控訴をいずれも棄却する。
  2. 控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判

1 控訴人ら

  1. 原判決を取り消す。
  2. ア 主位的請求
    被控訴人は,各控訴人に対し,原判決【別紙1】記載の謝罪文をそれぞれ交付せよ。
    イ 予備的請求
    被控訴人は,控訴人らに対し,朝日新聞,毎日新聞,読売新聞及び産経新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に2段抜きで,原判決【別紙2】記載の謝罪広告を,見出し及び被控訴人の名は4号活字をもって,その他は5号活字をもって1回掲載せよ。
  3. 被控訴人は,控訴人黄有良,控訴人陳亜扁,控訴人譚亜洞,控訴人鄧玉民,控訴人林亜金,控訴人陳金玉及び控訴人李徳良に対し,それぞれ2300万円及びこれに対する平成13年8月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  4. 被控訴人は,控訴人王徳雄,控訴人王政連及び控訴人王雪花に対し,それぞれ766万6666円及びこれに対する平成13年8月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  5. 訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人の負担とする。
  6. 仮執行宣言

2 被控訴人

  1. 本件控訴をいずれも棄却する。
  2. 控訴費用は控訴人らの負担とする。
  3. 仮に,仮執行宣言を付する場合の
    • ア 担保を条件とする仮執行免脱宣言
    • イ その執行の始期を判決正本が被控訴人に送達された後14日経過したときとする宣言
第2 事案の概要

1 控訴人らの請求
第二次世界大戦当時,海南島において,間島を占領した日本軍の軍人により拉致,監禁された上,従軍慰安婦として継続的に暴行を受けて強姦された(以下「本 件加害行為」という。)と主張する中華人民共和国国籍を有する女性ら(以下「本件被害女性ら」という。)及びその相続人である控訴人らは,被控訴人に対 し,

(1)本件加害行為によって著しい身体的・精神的苦痛を被ったとして,民法709条又は715条に基づき,各本件被害女性につき慰謝料2000万円 及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成13年8月11日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに,

(2)被控訴人が,本件加害行為により低下した本件被害女性らの名誉を回復する措置をとらずに違法に放置してきたと主張して,①民法723条1項, 国家賠償法4条に基づき,主位的には謝罪文の交付を,予備的には謝罪広告の掲載をそれぞれ求め,②国家賠償法1条に基づき,各本件被害女性につき慰謝料 300万円及びとれに対する訴状送達の日の翌日である平成13年8月11日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めている。

2 被控訴人の答弁
 被控訴人は,

  1. 民法709条及び715条は国の公権力の行使たる行為には適用されない,
  2. 本件加害行為に基づく損害賠償請求権は,民法724条後段の除斥期間の経過により消滅した,
  3. 被控訴人が戦後本件被害女性らの名誉を回復する措置を講じなかったことについて,被控訴人には作為義務違反はない,
  4. 日本国と中華民国との間で昭和27年4月28日に締結された「日本国と中華民国との間の平和条約」(以下「日華平和条約」という。),昭和47年 9月29日発出された「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(以下「日中共同声明」という。)等によって本件加害行為から生じた本件被害女性らの 被控訴人に対する損害賠償請求権は放棄された旨主張して,本件冬請求を争う。

3 原判決
 原判決は,

  1. 民法709条及び715条の不法行為に関する規定は,公権力の行使たる本件加害行為による損害には適用されない,
  2. 民法709条及び715条に基づく控訴人らの請求は理由がないが,仮に,これらの規定に基づく損害賠償請求権が発生したとしても,その請求権は,同法724条後段の除斥期間の経過により消滅している,
  3. 被控訴人が本件被害女性らの名誉回復措置を講じなかったことについて作為義務の違反があるとはいえない,

と判断して,控訴人らの請求をいずれも棄却した。

4 控訴
 控訴人らは,原判決の取消しを求めて控訴を申し立てた。

5 争点,争点に関する当事者の主張及び当審における主要な争点
(1)争点及び争点に関する当事者の主張等
争点及び争点に関する当事者の主張並びに本件被害女性らの被害事実に関する控訴人らの主張は,6において当審における当事者の主張を付加するほかは,原判 決「事実及び理由」欄の「第2事業の概要」の1ないし4(原判決5頁6行目から22頁18行目まで)及び原判決【別紙3】に記載するとおりであるから,こ れらをここに引用する(ただし,原判決11頁21行目及び12頁1行目の各『「不法行為ノ時」』をいずれも『「不法行為の時」』に,12頁14行目の 『「亦同シ」』を『「同様とする」』に,14頁19行目から20行目にかけての「昭和53年10月23日の日中平和友好条約の締結」を「昭和53年10月 23日の日中平和友好条約の発効(同年8月12日締結)」に,23行目の「損害賠償の提起」を「損害賠償請求訴訟の提起」に,17頁6行目から7行目にか けての「村山首相から現在の小泉首相まで,歴代の首相が,」を「村山首相から歴代の首相が,」に,22行目の「民法723条び」を「民法723条及び」 に,18頁13行目の「原告ら主張する」を「控訴人らの主張する」に,18行目の「民法不法行為規定」を「民法の不法行為規定」に,21頁14行目の「立 場にたって」を「立場に立って」に,20行目の「発表して」を「発出して」に,22頁2行目の「同条項によって」を「同項によって」に,15行目の「26 条ただし書第2文」を「26条後段」に改める。

(2)当審における主要な争点
当審においては,本件が当審に係属中の平成19年4月27日,最高裁判所において,中華人民共和国の国民 である上告人らが,第二次世界大戦当時,上告人X1及び亡A(訴訟提起後に死亡し,上告人X1以外の上告人らが訴訟を承継した。)の両名は,中国において 日本軍の構成員らによって監禁され,繰り返し強姦されるなどの被害を被ったと主張して,被上告人国に対し,民法715条1項,当時の中華民国民法上の使用 者責任等に基づき損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事件について,東京高等裁判所が言い渡した判決(東京高等裁判所平成14年(ネ)第2621号同17 年3月18日判決・訟務月報51巻11号2858頁)に対する上告受理事件について,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民 若しくは法人に対する請求権は,日中共同声明5項によって,裁判上訴求する権能を失ったというべきであり,そのような請求権に基づく裁判上の請求に対し, 同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張されたときは,当該請求は棄却を免れないこととなるところ,上告人らの上記請求は,日中戦争の遂行中に生じた日本軍兵 士らによる違法行為を理由とする損害賠償請求であり,日中共同声明5項に基づく請求権放棄の対象となるといわざるを得ず,裁判上訴求することは認められな いというべきであるとして,上告人らの上告を棄却する判決が言い渡された(最高裁判所平成17年(受)第1735号同19年4月27日第一小法廷判決・判 例時報1969号28頁,判例タイムズ1240号121頁参照)ことから,この最高裁判所第一小法廷判決(以下「平成19年最高裁判決」という。)を前提 にして,争点4の本件被害女性らの被控訴人に対する損害賠償請求権が日中共同声明5項(「中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対 する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」)により,放棄されたか否かが主要な争点となった。

(3)平成19年最高裁判決の概要は,次のとおりである。
ア 上記X1及び亡Aの被害事実(原審が適法に確定した事実関係)の概要
(ア)X1
X1 は,1927年(昭和2年),山西省孟県で生まれ,同地で育った。1942年(昭和17年)旧暦7月のある日,武装した日本兵と日本軍に協力していた地元 住民による武装組織が姉夫婦の家を襲い,その際,X1は姉の家族とともに進圭村の日本軍の拠点に連行され,監禁された。当時15歳であったX1は,その夜 から,隊長を含む複数の日本兵らによって繰り返し輪姦された。X1は,約半月後,家族の助けにより帰宅できたが,その後更に2回にわたり連行され,同様に 監禁,強姦される被害にあった。X1は,同年旧暦9月中旬ころ解放されたが,現在,上記監禁及び強姦に起因すると思われる重度の心的外傷後ストレス障害 (PTSD)の症状が存在する。

(イ)亡A
Aは,1929年(昭和4年),山西省孟県で生まれ,同地で育った。
1942年(昭和17年)旧暦3月のある 日,多数の日本兵がAの住む村に侵入し,父らとともに捕えられた。当時13歳のAは,複数の日本兵によって殴る蹴るの暴行を加えられた上,強姦された。そ の後,同人の母が銀700元を日本軍に支払って解放されたが,その間約40日にわたり,繰り返し強姦,輪姦の被害を受けた。同人は,1999年(平成11 年)5月11日に死亡したが,生前,上記監禁及び強姦に起因すると思われる重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が存在した。

イ 請求権放棄についての判断の概要
(ア)戦後処理の基本原則としての請求権放棄についての判断の概要
a 第二次世界大戦 後における日本国の戦後処理の骨格を定めることとなったサンフランシスコ平和条約は,いわゆる戦争賠償に係る日本国の連合国に対する賠償義務を肯認し,実 質的に戦争賠償の一部に充当する趣旨で,連合国の管轄下にある在外資産の処分を連合国にゆだねる(14条(a)2)などの処理を定める一方,日本国の資源 は完全な戦争賠償を行うのに充分でないことも承認されるとして(14条(a)柱書き),その負担能力への配慮を示し,役務賠償を含めて戦争賠償の具体的な 取決めについては,日本国と各連合国との間の個別の交渉にゆだねることとした(14条(a)1)。そして,このような戦争賠償の処理の前提となったのが, いわゆる「請求権の処理」である。ここでいう「請求権の処理」とは,戦争の遂行中に生じた交戦国相互間又はその国民相互間の請求権であって戦争賠償とは別 個に交渉主題となる可能性のあるものの処理をいうが,これについては,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じた相手国及びその国民に対するすべての請求 権は相互に放棄するものとされた(14条(b),19条(a))。

b このように,サンフランシスコ平和条約は,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを前提として,日本国 は連合国に対する戦争賠償の義務を認めて連合国の管轄下にある在外資産の処分を連合国にゆだね,役務賠償を含めて具体的な戦争賠償の取決めは各連合国との 間で個別に行うという日本国の戦後処理の枠組みを定めるものであった。この枠組みは,連合国48か国との間で締結されこれによって日本国が独立を回復した というサンフランシスコ平和条約の重要性にかんがみ,日本国がサンフランシスコ平和条約の当事国以外の国や地域との間で平和条約等を締結して戦後処理をす るに当たっても,その枠組みとなるべきものであった(以下,この枠組みを「サンフランシスコ平和条約の枠組み」という。)。

c サンフランシスコ平和条約の枠組みにおける請求権放棄の趣旨が,上記のように請求権の問題を事後的個別的な民事裁判上の権利行使による解決にゆ だねるのを避けるという点にあることにかんがみると,ここでいう請求権の「放棄」とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該 請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。

d サンフランシスコ平和条約の締結後,日本国政府と同条約の当事国政府との間では,同条約に従って,役務賠償を含む戦争賠償の在り方について交渉 が行われたが,そこでは,当然ながら,個人の請求権を含めた請求権の相互の放棄が前提とされた。日本国政府は,サンフランシスコ平和条約の当事国とならな かった諸国又は地域についても,個別に二国間平和条約又は賠償協定を締結するなどして,戦争賠償及び請求権の処理を進めていったが,これらの条約等におい ても,請求権の処理に関し,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄する旨が明示的に定められている。

(イ)日華平和条約による請求権放棄についての判断の概要
a 中華民国政府との間で締結された日華平和条約11条は,「日本国と中華民 国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題」はサンフランシスコ平和条約の相当規定に従うものと規定するところ,その中には,個人の請求権を含む請 求権の処理の問題も当然含まれていると解されるから,これによれば,日中戦争の遂行中に生じた中国及び中国国民のすべての請求権は,サンフランシスコ平和 条約14条(b)の規定に準じて,放棄されたと解すべきこととなる。 b 日華平和条約が締結された1952年(昭和27年)当時,中華民国政府が,日中戦争の講和に係る平和条約を締結する権限を有していたかどうか,疑問の 余地もないではないが,日本国政府において中華民国政府を中国の正統政府として承認していたのであり,中華民国政府が日中戦争の講和に係る平和条約を締結 すること自体に妨げはなかったというべきである。 c 日華平和条約が締結された当時,中華民国政府は台湾及びその周辺の諸島を支配するにとどまっており,附属交換公文には,これを前提として,「この条約 の条項が,中華民国に関しては,中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後入るすべての領域に適用がある」旨の記載があり,この記載によると,戦争賠償及 び請求権の処理に関する条項は,中華人民共和国政府が支配していた中国大陸については,将来の適用の可能性が示されたにすぎないとの解釈も十分に成り立つ ものというべきである。したがって,戦争賠償及び個人の請求権を含む請求権の放棄を定める日華平和条約11条及び議定書1(b)の条項については,同条約 の締結後中華民国政府の支配下に入ることがなかった中国大陸に適用されるものと断定することはできず,中国大陸に居住する中国国民に対して当然にその効力 が及ぶものとすることもできない。
 上告人らは,中国大陸に居住する中国国民であることが明らかであるから,同人らに対して当然に同条約による請求権放棄の効力が及ぶとすることはできない。

(ウ)日中共同声明5項による請求権放棄についての判断の概要
a 日中共同声明5項は,「中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と述べるもの であり,放棄の対象となる「請求」の主体が明示されておらず,国家間のいわゆる戦争賠償のほかに請求権の処理を含む趣旨かどうか,また,請求権の処理を含 むとしても,中華人民共和国の国民が個人として有する請求権の放棄を含む趣旨かどうかが,必ずしも明らかとはいえない。

b しかし,公表されている日中国交正常化交渉の公式記録や関係者の回顧録等に基づく考証を経て今日では公知の事実となっている交渉経緯等を踏まえ て考えた場合,日中共同声明は,平和条約の実質を有するものと解すべきであり,日中共同声明において,戦争賠償及び請求権の処理について,サンフランシス コ平和条約の枠組みと異なる取決めがされたものと解することはできず,日中共同声明は,サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる趣旨のものではなく,請 求権の処理については,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを明らかにしたものというべきである。

c 上記のような日中共同声明5項の解釈を前提に,その法規範性及び法的効力について検討すると,中華人民共和国が,これを創設的な国際法規範とし て認識していたことは明らかであり,少なくとも同国側の一方的な宣言としての法規範性を肯定し得るものである。さらに,国際法上条約としての性格を有する ことが明らかな「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」(昭和53年8月12日締結,同年10月23日発効。以下「日中平和友好条約」という。) において,日中共同声明に示された諸原則を厳格に遵守する旨が確認されたことにより,日中共同声明5項の内容が日本国においても条約としての法規範性を獲 得したというべきであり,いずれにせよ,その国際法上の法規範性が認められることは明らかである。そして,サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいては, 請求権の放棄とは,請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせることを意味するのであるから,その内容を具体化するための国内法上の措置は必要とせず, 日中共同声明5項が定める請求権の放棄も,同様に国内法的な効力が認められる。

d 以上のとおりであるから,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は,日中共同声明5項 によって,裁判上訴求する権能を失ったというべきであり,そのような請求権に基づく裁判上の請求に対し,同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張されたとき は,当該請求は棄却を免れないこととなる。

ウ まとめ
本訴請求は,日中戦争の遂行中に生じた日本軍兵士らによる違法行為を理由とする損害賠償請求であり,前記事実関係にかんがみ て本件被害者らの被った精神的・肉体的な苦痛は極めて大きなものであったと認められるが,日中共同声明5項に基づく請求権放棄の対象となるといわざるを得 ず,裁判上訴求することは認められない。

6 当審における当事者の主張
(1)控訴人ら
ア 個人の賠償請求権を放棄することはできない。
平成19年最高裁判決は,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権(訴求権)は,日中共同声明5項により放棄されたとするが,次の理由から,不当である。

(ア)ユス・コーゲンス違反の行為による賠償請求権を放棄することはできない。
本件加害行為は,奴隷禁止諸条約,強制労働条約 (ILO29号条約),婦人売買禁止に関する諸条約に違反するというユス・コーゲンス(一般国際法の強行規範)違反の行為であるところ,ユス・コーゲンス 違反の行為については,条約法に関するウィーン条約53条がユス・コーゲンスに違反する内容を含む条約を無効とすることを規定していることからしても,国 際法理(ユス・コーゲンスの法理)上,国家は,ユス・コーゲンス違反の行為による個人の損害賠償請求権を放棄することができない。

(イ)ジュネーブ第4条約により個人の賠償請求権を放棄することはできない。
日中共同声明は,昭和28年10月21日に発効したジュ ネーブ第4条約(戦時における文民の保護に関する条約)後に発出されたものであるが,同条約は,その27条で「女子は,その名誉に対する侵害,特に,強 姦,強制売いんその他あらゆる種類のわいせつ行為から特別に保護しなければならない。」と規定した上,8条は,「被保護者は,いかなる場合にも,この条 約,及び前条に掲げる特別協定があるときは,その協定により保障される権利を部分的にも又は全面的にも放棄することができない。」とし,147条は,「前 条(146条の罰則規定を指す)にいう重大な違反行為とは,この条約が保護する人又は物に対して行われる次の行為,すなわち,殺人,拷問若しくは非人道的 待遇(生物学的実験も含む。),身体若しくは健康に対して故意に重い苦痛を与え,若しくは重大な傷害を加えること,……をいう。」と定めた上,148条に より「締約国は,前条に掲げる違反行為に関し,自国が負うべき責任を免れ,又は他の締約国をしてその国が負うべき責任から免れさせてはならない。」として いる。すなわち,ジュネーブ第4条約は,個人の私法上の損害賠償請求権は国家の賠償請求権とは別個に存在し,平和条約や共同声明などの国家間の取決めによ り消滅させられるものではないことを明瞭に認めているのである。慰安婦(性奴隷)被害の事実である本件事案はジュネーブ第4条約により保護されるから,控 訴人らの損害賠償請求権(訴求権)は日中共同声明5項により放棄されてはいないこととなる。

イ 日中共同声明5項による請求権放棄の対象ではない。
仮に,平成19年最高裁判決の上記論理が正当であるとしても,次のとおり,控訴人らの損害賠償請求権は,日中共同声明5項による放棄の対象ではない。

(ア)日中共同声明発出当時認知されていなかった精神障害である。
控訴人鄧玉民以外の本件被害女性らは,本件加害行為により,「破局的 体験後の持続的人格変化」という精神障害を被り,控訴人鄧玉民は,重いPTSDに罹患したものであるところ,PTSDが1980年のアメリカ精神医学会の 審査基準DSM-Ⅲによって承認され,「破局的体験後の持続的人格変化」は1992年の世界保健機構(WHO)ICD-10の基準により認められた疾病で あり,上記各時点でそれぞれ被害が発生したものと考えられるから,1972年の日中共同声明発出当時,上記各疾病を理由とする控訴人らの損害賠償請求権 は,未だ成立していなかったというべきである。
したがって,日中共同声明発出当時存在しない賠償請求権を日中共同声明5項により放棄することはできない。

(イ)日中共同声明発出当時認識されていなかった被害である。
日中両国政府は,日中共同声明発出当時,本件被害女性ら慰安婦の被害を認識していなかったから,認識していない被害についての賠償請求権を放棄することは できない以上,PTSD及び「破局的体験後の持続的人格変化」による賠償請求権(訴求権)は,日中共同声明によっては放棄されていないことになる。

ウ 最恵国待遇による請求権の放棄がされていないことなどについて
サンフランシスコ平和条約締結の際,同条約14条の規定に関連し,我 が国とオランダとの間で当該規定が個人の賠償請求権を放棄したものかどうかについて見解が一致しなかったことから,破控訴人がオランダ国民に対し,見舞金 名目で補償したことは原審において主張したとおりであるが,さらに被控訴人は,スウェーデンは中立国であってサンフランシスコ平和条約の当事国ではなかっ たが,昭和32年9月10日スウェーデンとの間で「請求権解決に関する取決め」を締結して,「第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がスウェーデンの自然 人及び法人に与えた損害及び苦痛であって,日本国政府が国際法に従い責任を有するもののすべての損害賠償の解決として」,日本政府が725万クローネを支 払うことで「すべての請求権の完全かつ最終的な解決」が図られた。このような他の諸国との間でとられた請求権処理は,他の諸国に対してのみ大きな利益を与 えたことになり,サンフランシスコ平和条約26条後段の最恵国待遇規定により,他の国の国民も同様に大きな利益を得ることができることになるから,その請 求権は未だ放棄されていないというべきであり,仮に,放棄されたとしても,その請求権は復活したというべきである。

エ 事情変更の法理により日中共同声明5項は適用されない。
仮に,平成19年最高裁判決の上記論理が正当であるとしても,条約締結当時 の事情からは予想することもできなかったような重大な変化が生じた場合には,条約の当事国は,一方的にその条約を廃棄することができると解されるところ, 日中共同声明発出当時,PTSD及び「破局的体験後の持続的人格変化」は,全く予測不可能な精神疾患(後遺症)であり,事情変更の法理により,日中共同声 明5項の適用を認めるべきではないから,上記各精神疾患に対する控訴人らの損害賠償請求権は,日中共同声明5項により放棄されていないこととなる。

オ 行政不作為に基づく賠償請求
仮に,日中共同声明5項により中国国民の日本に対する請求権(訴求権)が放棄されたとする平成19年最 高裁判決の上記論理が正当であるとしても,訴求権が放棄されたにすぎないから,日中共同声明発出後においても中国の日中戦争被害者には,日本に対する不法 行為に基づく損害賠償請求権及び名誉回復請求権が自然債務類似の実体法上の権利として残存していると解される。そして,控訴人らが主張する損害賠償請求権 の一つである行政不作為を理由とする300万円の慰謝料請求権は,従来から主張している先行行為に基づく作為義務と競合して,1956年の「オランダ国民 のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する議定書」によるオランダの被害者に対する計1000万ドルの補償や1995年に創設された「財団法人女性 のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を通じて被害者に対する補償をしたことによって,上記自然債務類似の損害賠償債務につき上記補償等と同程 度の限度で補償等をすべき法的履行義務を負ったか又はいったん放棄した請求権(訴求権)が復活したと評価できる上に,日本政府が元「従軍慰安婦」被害者の 要求を拒み続けている間に,国際社会は,いくつもの権威ある機関(国連人権委員会,国際労働機構,国連A規約委員会,国連女性差別撤廃委員会等)を通じて この問題を調査し,専門的見地から審理し,日本政府の法的責任を認め,日本政府に対し公式謝罪と国家賠償を柱とする対応措置をとるよう相次いで求めたほ か,アメリカ合衆国下院の決議を始めとする各国議会の決議は,アジア女性基金以外には何も対応しない日本政府に対し,謝罪と補償を求めている。ここには, 債務者日本政府に対する,世論,慣習等の社会規範による債務の履行の強制力をみることができ,本件被害が重大な人権侵害であることから,その社会規範によ る強制力は極めて大きいもので,日本政府に対し法的義務としての行政上の作為義務を生じさせるに十分であり,被控訴人は実体上の権利として残存している本 件被害女性らの損害賠償請求権及び名誉回復請求権に対応する作為義務を負担したものというべきである。それにもかかわらず,日本政府は,本件被害女性らの 名誉回復の措置をとらずに違法に放置してきたものであり,その結果,本件被害女性らの名誉が回復されず,精神的にもPTSDないし「破局的体験後の持続的 人格変化」をきたしたのであるから,被控訴人は控訴人らに対し,損害賠償の義務がある。これは,平成19年最高裁判決により訴求権が消滅したとされる直接 的被害に対する損害賠償請求ではなく,本件被害女性らが名誉を侵害され,PTSDないし「破局的体験後の持続的人格変化」をきたしたことに対し,救済の手 を差し伸べることなく放置したことを原因とする損害賠償請求である。

(2) 被控訴人
ア 個人の賠償請求権が放棄されたことについて
平成19年最高裁判決は,日中共同声明5項により,被害の態様を問わず,日中戦争遂行中に生じた全ての請求権(訴求権)は放棄された旨判示したものであるから,日中戦争遂行中に生じた本件被害女性らの賠償請求権(訴求権)も,白中共同声明5項により放棄されたものである。

イ 日中共同声明5項による請求権放棄の対象
(ア)PTSD及び「破局的体験後の持続的人格変化」について
PTSD及び 「破局的体験後の持続的人格変化」は,いずれも,昭和47年の日中共同声明発出当時,医学界において承認されていなかったという点において共通し,戦争遂 行中に行われた行為の結果生じた損害であることにも変わりがないから,平成19年最高裁判決がPTSDに関する損害賠償請求権を日中共同声明5項による請 求権放棄の対象としている以上,控訴人らの「破局的体験後の持続的人格変化」に関する損害賠償請求権も,PTSDに関する損害賠償請求権と同様,日中共同 声明5項の発出後は,裁判上訴求することができないこととなる。

(イ)日中共同声明発出当時の被害認識について
日本国と連合国48か国との間で昭和26年9月8日締結されたサンフランシスコ平和条約 (昭和27年4月28日発効)その他これに関連する条約等は,国家間における合意であり,その根本的な趣旨は,日本との戦争に起因する諸問題の最終的な解 決を目的とすることにあるから,日本との戦争の遂行中に行われた行為の結果生じた損害についてはその損害の発生を被害者において認識していたか否かを問わ ず,一律にこれを放棄の対象として訴求することができないものにしたと解釈すべきである。

ウ 最恵国待遇規定の適用がないことなどについて
サンフランシスコ平和条約26条後段が「日本国が,いずれかの国との間で,この条約で 定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは,これと同一の利益は,この条約の当事国にも及ぼされなければな らない。」と規定するとおり,同条の規定を援用して自らの権利を主張できるのは,あくまでも「この条約の当事国」であって,その国民ではない。したがっ て,控訴人らは,サンフランシスコ平和条約26条後段の最恵国待遇規定を援用することはできない。

また,上記の点を措くとしても,サンフランシスコ平和条約26条前段ただし害は「この日本国の義務は,この条約の最初の効力発生の後3年で満了する。」と規定しているのであって,同条に規定する日本国の義務は,既に消滅しているものというべきである。

エ 行政不作為に基づく賠償請求権について
控訴人らは,日中戦争の遂行中に行われた行為の結果生じた訴求権能が失われた損害賠償請求権 について,その損害賠償請求権を不作為による損害賠償請求権と構成し直すことによって,裁判上の訴求権能を復活させようとするものであって,平成19年最 高裁判決の趣旨(「日中共同声明は,サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる趣旨のものではなく,請求権の処理については,個人の請求権を含め,戦争の 遂行中に生じた全ての請求権を相互に放棄したもの」)を没却するものである。

また,控訴人らは,オランダの被害者に対する補償やアジア女性基金を通じての被害者に対する補償や医療支援を被控訴人がしたことよって,自然債務類 似の実体法上の義務を履行すべき法的義務を負った旨主張するが,そのような作為義務を課するような法の明文の規定はないのみならず,作為義務の内容が法令 の解釈によって一義的に決まる場合でもないし,公務員の作為義務が法令によって与えちれている場合でもない。結局のところ,控訴人らが主張する作為義務 は,公務員の作為権限が法令によって具体的に規定されていない場合の作為義務に当たると解されるところ,このような場合には,原則的には,公務員の不作為 に対し政治責任を負うにとどまると解され,例外的に,国民の生命,身体,財産に対する差し迫った重大な危険状態が発生した場合,国,特に行政機関が超法規 的,一時的にその危険状態排除に当たらなければ国民に保護を与えられないようなときに,全法律的秩序の明示又は黙示の命令(条理)による国の作為義務を生 じさせる必要があるにとどまる。しかし,超法規的,一時的にその危険を排除しなければならないほどの重大な危険状態が控訴人らに発生しているとまではいえ ないから,控訴人らが主張する公務員の責務は,政治上,道義上の一般的な責務にとどまるものであって,法的な作為義務として評価されるべきものではない。

なお,控訴人らは,被控訴人がオランダの被害者に対する補償やアジア女性基金を通じての被害者に対する補償や医療支援をしたことによって自然債務類似の実 体法上の権利を履行すべき法的義務を負った旨主張するが,これらは,いずれも自発的な取組みであって,国家間の合意や社会的規範による強制力によるもので はない。

第3 当裁判所の判断

1 本件の背景事情,本件被害女性らの被害事実等について
証拠(甲1ないし3,7,9,10,14ないし33,63(枝番のあるものについては,各被番を含む。),証人張応勇,控訴人林亜金,控訴人陳亜扁,控訴人陳金玉,控訴人黄有良)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

(1)本件の背景事情
日本軍は,昭和6年9月18日のいわゆる満州事変を契機に中国満州地方への軍事的介入を開始し,昭和12年7月7日のいわゆる廬溝橋事件をきっかけに中華民国政府と交戦状態に入った。

昭和7年のいわゆる第一次上海事変のころから第二次世界大戦の終戦時まで,長期に,かつ広範な地域において,軍事慰安所(以下「慰安所」という。) が設置され,ここに日本軍人相手の性労働を強いる数多くの軍隊慰安婦(以下「慰安婦」という。)が配置された。慰安所は,日本軍当局の要請により設営され たものであり,慰安所の設置,管理及び慰安婦の移送については,日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の中には,甘言,強圧によるなど,その 意に反して集められ,性行為を強要された者も数多くあった。慰安婦は,戦地では常時日本軍の管理下に置かれ,日本軍とともに行動させちれた。  日本陸海軍は,昭和14年,海南島に侵攻してこれを占領し,それに伴い海南島の島港の町にも慰安所が設置され,占領地域の拡大に伴い,各地に武装部隊が 駐屯し,慰安所が増設された。

(2)本件被害女性らの被害事実等

ア 譚玉蓮について
譚玉蓮は,大正14年(1925年)陰暦7月ころに保亭県南林郷南通村で生まれた黎族の女性である。同人は,昭和18年の春,日本軍が南郷に入り 藤橋から三道を経て密林までの道路敷設をした際,18歳で徴用されて労働者となり,甫林の拠点に連行された。そして連行されたその日のうちに,日本軍の食 事の支度や洗濯の担当者との名目で「戦地後動服務隊」に選ばれた。譚玉蓮は,密林で戦地後動服務隊として仕事をしている最中に,山中に連れ込まれ,複数の 日本軍人に強姦された。譚玉蓮は,拠点でその日の夜,通訳から「逃げ出すことはできない。もし誰かが逃げ出せば他の者や家族を殺す。」と言われたことか ら,日本軍人に従わざるを得なかった。譚玉蓮は,茅葺きの掘っ建て小屋に間仕切りをしただけの粗末な個室に入れられ,ほぼ毎日複数の日本軍人に強姦され た。譚玉蓮は,いったん南林の拠点から逃げ出すことに成功したが,再び日本軍に捕らえられて連れ戻され,それから1年以上の間同所に監禁されて過ごした。 その後譚玉蓮は,大村へ連れて行かれたが,昭和20年半ばになると大村に駐屯していた日本軍が混乱し始めたため,譚玉蓮は,その隙を見て逃げ出した。
イ 控訴人黄有良について
控訴人黄有良は,昭和2年(1927年)12月10日に陵水県田仔郷架馬村で生まれた黎族の女性である。控訴人黄有良は,14歳の時に村に侵攻し て来た日本軍人に自宅で強姦された。その翌日,日本軍人が控訴人黄有良の家に来て控訴人黄有良を強姦した。その翌日,控訴人黄有良は,架馬村に設営された 日本軍の駐屯地に無理矢理連れて行かれ,駐屯地の中にある日本軍の慰安所に監禁され,毎日性行為を強要されたほか,掃除洗濯などの労働も強いられた。 2,3か月後,控訴人黄有良は,藤橋に移送され,慰安所に入れられた。この慰安所は,部屋には鍵をかけられ,日本軍人が見張っていて逃げ出すことは不可能 であり,控訴人黄有良は,ここで1日2回わずかな食事を与えられながら,ほぼ毎日日本軍人に強姦された。控訴人黄有良は,藤橋の慰安所に1年ほど監禁され た。控訴人黄有良の身の上に同情した通訳の黄文昌が,控訴人黄有良の親が死亡したという話をし,日本軍の上官に願い出た結果,控訴人黄有良は自宅に帰るこ とが認められた。
ウ 控訴人陳亜扁について
控訴人陳亜扁は,昭和2年(1927年)12月16日に海南島陵水県で生まれた黎族の女性である。控訴人陳亜扁は,14歳の時,村に侵攻して来た 日本軍人に駐屯地に連行されて監禁された。控訴人陳亜扁は,連行されて2日日の夜に2人の日本軍人に強姦された。控訴人陳亜扁は,昼は掃除や炊事の仕事を させられ,夜になると日本軍人に強姦される生活が2,3か月続いた後,藤橋にある慰安所に移送され,その後,元の駐屯地へ戻されたが,その間も,暴力を娠 るわれ,強姦された。控訴人陳亜扁は,日本の敗戦直前に日本軍人の隙をついて逃げ,山の中に隠れたため,日本の敗戦を知らずに,約1か月間山中で生活し, その後村へ戻った。控訴人陳亜扁は,24歳の時に結婚し,9回妊娠したがそのうち8回は流産又は死産であった。
エ 控訴人譚亜洞について
控訴人譚亜洞は,大正14年(1925年)7月に生まれた黎族の女性である。控訴人譚亜洞は,16,7歳のころ,侵攻して来た日本軍に徴用され て,「戦地後動服務隊」に選ばれ,日本軍の駐屯地に連行された後,日本軍人に山中に連れ込まれて強姦された。控訴人譚亜洞は,このときの暴力によって片耳 が聞こえなくなった。それ以降,控訴人譚亜洞は,駐屯地に監禁され,昼は日本軍のための水運び,洗濯,裁縫,炊事等に従事させられ,夜は日本軍人に強姦さ れ,抵抗したり,逃亡しようとしたりすると棍棒等で殴られるという毎日を送った。控訴人譚亜洞は,監禁中,米飯と塩だけの朝食を与えられたが,昼食と夕食 は自分で山菜を採って食べなければならなかった。控訴人譚亜洞が監禁されていた部屋は,茅葺きの掘っ建て小屋に間仕切りをしただけの粗末なものであった。 控訴人譚亜洞は,何度か逃走しようとしたが,監視していた日本軍人にすぐに捕まり,そのたびに棍棒で殴られる等の暴行を受けた。控訴人譚亜洞は,各地の駐 屯地の慰安所を移動させられたが,そのうち大村の慰安所に継続して監禁されるようになり,その間日本軍人に強姦された。控訴人譚亜洞は,終戦間近になり, 混乱していた日本軍の隙を見て逃げ出したが,現在でも,日本軍人に殴られた右肋骨背部が変形隆起したままになっており,左腰骨もずれて隆起し外部に湾曲し たままになっている。
オ 控訴人林亜金について
控訴人林亜金は,大正13年(1924年)9月24日に保亭県南林郷羅葵村で生まれた黎族の女性である。控訴人林亜金は,昭和18年の夏,村に侵 攻して来た日本軍人に捕らえられ,後ろ手に縛られて,什君邁にある日本軍の駐屯地に連れて行かれて,茅葺きの建物の部屋に監禁され,その翌日,複数の日本 軍人に強姦された。控訴人林亜金は,以後毎日のように日本軍人に強姦され,少しでも抵抗すると,たばこの火を押し付けられるなどの暴行を受けた。控訴大林 亜金はその後,日本軍の駐屯地等がある什浪,什丁,羅朋,田独の間を移動させられたが,その間,わずかな食事しか与えられず,什丁以外の全ての場所で粗末 な部屋に一人で監禁され強姦された。控訴人林亜金は,少しでも抵抗をすると,日本軍人から殴られたり,蹴られたり,煙草の火を押しつけられたり,足をキリ のようなもので刺されたりし,逃げられるような状況にはなかった。控訴人称亜金は,日本軍が撤退する直前に,田独で解放されたが,控訴人林亜金の身体に は,日本軍人にたばこを顔に押し付けられたり,足をキリのようなもので刺されたりした傷跡が残っている。
カ 控訴人陳金玉について
控訴人陳金玉は,大正15年(1926年)12月15日に加茂で生まれた黎族の女性である。控訴人陳金玉は,14歳の時に自宅に押し入ってきた日 本軍人によって父母のいる前で強姦された。控訴人陳金玉は,日本軍に対する恐怖心から,村から山へ逃げ,3か月間ほど山中に隠れていたが,日本軍人が控訴 人陳金玉を探し出すために村人を集め拷問を加えたため,控訴人陳金玉は,村人から抗議を受けた父母から村人を救うためにと説得されて山から下り,日本軍駐 屯地に連行された。その後,控訴人陳金玉は,駐屯地において,逃亡したことに対する制裁として,腹の下に刃を上に向けた軍刀の抜身を置かれ,その上で腕立 て伏せのような四つん這いの格好をさせられ,体を上げて楽な姿勢をとると棒で腰を叩くというような暴力を振るわれ,約3か月間監禁され,以後繰り返し日本 軍人により強姦された。その後,控訴人陳金玉は,約2か月間,農作業に従事しながら,日本軍人に強姦される日が続いた。その後,控訴人陳金玉は,体の調子 が悪くなり,自宅に帰された。
キ 控訴人鄧玉民について
控訴人鄧玉民は,大正14年(1925年)又は15年(1926年)ころに毛感郷千龍洞苗村で生まれた苗族の女性である。控訴人鄧玉民は,昭和 18年ころ,日本軍に徴用された際,日本軍駐屯地近くで3人の日本軍人に強姦された。控訴人鄧玉民は,強姦された後,労働に出なかったところ,日本軍人が 村に押しかけて来て控訴人鄧玉民だけでなく他の村人にも暴行を加えたため,控訴人鄧玉民は労働に出ることを拒否し続けるごとができず,以後,2年間労働に 出たが,毎日のように駐屯地の倉庫の中で強姦され,3年間にわたって監禁された。
ク 黄玉鳳について
黄玉鳳は,保亭県加茂毛林村で生まれた黎族の女性である。黄玉鳳は,昭和15年ころから日本軍に徴用され野菜や葉たばこの栽培に従事していたが, 昭和18年末ころ,頼進興という日本軍の協力者に脅迫され,同人の手引きにより日本軍人に引き渡され強姦された。黄玉鳳が監禁されていた場所は,駐屯地内 の小部屋で「日本娘の部屋」と呼ばれる建物の一角にあった。黄玉鳳は,毎日のように昼夜を問わず複数の日本軍人に強姦され,日本娘と呼ばれていた慰安婦が 来た時にだけ休むことができた。黄玉鳳は,一度逃げ出したことがあったが,すぐに捕まり,控訴人陳金玉に加えられたのと同様の制裁を加えられたことから, その後逃走を試みたことはない,黄玉鳳は,終戦間際,日本軍の隊長が殺害された混乱時に隙を見て逃げた,

ケ 本件加害行為のうち,拠点への連行,移送,あるいは連れ戻し,監禁及びその見張り等の本件被害女性らの人身の自由を奪う行為は,着剣した続等で 武装した日本軍人による暴力や生命,身体に対する害悪の告知等によって行われたものであり,強姦等の性暴力は身体に直接的に加えられた暴力のほか,上記の ような武器による威嚇や脅迫を背景として敢行されたものであった。本件被害女性らに対する上記人身の自由を奪う行為及び強姦行為については,部隊の「隊 長」と呼ばれる軍人が率先して敢行する場合もあった。本件被害女性らは,いずれも,日本軍から解放された後に結婚したが,結婚後においても,慰安婦であっ たとして周囲の人々から誹訪中傷され,蔑視されるなどした。本件被害女性らは,日本軍から解放された後も,本件加害行為を行った日本軍人や本件加害行為に よる被害の状況を繰り返し夢に見たり思い出したりして,動悸,恐怖等を覚えることがある。

(3)相続
譚玉蓮は,平成14年11月30日に死亡した。控訴人李徳良は,譚玉蓮の子であり,遺産相続協議により本訴請求債権を相続した。
黄玉鳳は,平成16年1月7日に死亡した。控訴人王徳雄は,黄玉鳳の夫,控訴人王敬遠及び控訴人王雪花は,黄玉鳳の子であり,本訴請求債権を各3分の1の持分割合で相続した。

(4)上記認定事実によれば,本件は,中華民国軍と交戦状態(日中戦争)に入った日本軍が昭和14年に中華民国の領土である海南島に侵攻してこれを 占領し,その占領軍を組成する軍人と占領地住民(非戦闘員)である本件被害女性らとの間に生じた事件であるから,戦時国際法が適用されることとなる。

陸戦に関する戦時国際法としては,本件当時,1907年第2回ハーグ平和会議議定の「陸戦の法規慣例に関する条約(以下「ハーグ陸戦条約」とい う。)」が既に発効しており(日本においては,明治45年2月12日発効),既に成立していた慣例を陸戦条約の附属規則として成文化した「陸戦の法規慣例 に関する規則(以下「ハーグ陸戦規則」という。)」が定められており,ハーグ陸戦規則は,占領地住民との関係で占領軍が遵守すべきこととして「家の名誉及 び権利,個人の生命,私有財産,並びに宗教の信仰及其の遵行は之を尊重すべし。私有財産は之を没収することを得ず。」と定め,ハーグ陸戦条約3条は「これ に違反したる交戦当事者は,損害ある時は,之が賠償の責を負うものとす。交戦当事者は,其の軍隊を組成する人員の一切の行為に付責任を負う。」と定めてい るところ,本件加害行為は,占領軍である日本軍のうち,本件被害女性らの居住する地域に駐屯した部隊において,軍人が銃をもって脅迫して,占領地住民(非 戦闘員)である本件被害女性らをその自宅等で強姦し,駐留部隊の駐屯地に拉致して監禁し,その監禁中に軍人が本件被害女性らを繰り返し強姦したというので あるから,本件被害女性らに対する本件加害行為がハーグ陸戦規則46条に違反し,ハーグ陸戦条約3条に該当するものであることは明らかであって,戦時国際 法に違反するものであったといわなければならない。更に,昭和17年2月20日法律第35号による改正前の陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号) 及び昭和17年2月20日法律第36号による改正前の海軍刑法(明治41年4月10日法律第48号)においては,占領地における強姦行為は平成16年法律 第156号による改正前の刑法(以下「刑法」という。)の第22章の規定によって処断されるものであり(陸軍刑法4条,海軍刑法4条,なお,昭和17年2 月20日法律第35号及び第36号の各附則参照。),暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は,強姦の罪とし,2年以上の有期懲役に処し(親 告罪),この罪を犯し,よって人を死傷させた者は,無期又は3年以上の懲役に処する(非親告罪)こととされていた。昭和17年2月20日法律第35号,第 36号により,陸軍刑法88条の2及び海軍刑法88条の2がそれぞれ新設され,いずれも陸海軍軍人で「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ 無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス(1項)。前項ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ処シ 死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期若シクハ七年 以上ノ懲役ニ処ス(2項)。」と規定され(非親告罪),その法定刑についてみると,刑法の規定に比べて,強姦の罪については,懲役刑の短期が2年から1年 に引き下げられたが新たに無期懲役刑が加えられ,致死傷の場合には無期又は3年以上の懲役とされているものを致死の場合には死刑又は無期若しくは7年以上 の懲役として,刑法の規定よりも重く罰することとしており,この改正法は昭和17年3月15日から施行された。したがって,占領地である海南島において, 駐屯部隊の軍人が本件被害女性らを繰り返し強姦した本件加害行為は,いずれも刑法又は陸軍刑法及び海軍刑法所定の強姦罪等により処断される重大な犯罪行為 であったというべきである。そして,本件被害女性らは,本件加害行為を受けた当時,14歳から19歳までの女性であったのであり,このような本件被害女性 らに対し,軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために凌辱の限りを尽くした軍人らの本件加害行為は,極めて卑劣な行為であって,厳 しい非難を受けるべきである。このような本件加害行為により本件被害女性らが受けた被害は誠に深刻であって,これが既に癒されたとか,償われたとかいうこ とができないことは本件の経緯から明らかであるが,本件加害行為を原因として,被控訴人が,本件被害女性らに対し,直接に法的責任を負うか否かについて は,更に検討が必要である。 2 本件被害女性らに生じている精神的障害について

(1)本件被害女性らに生じている精神的障害
証拠(甲64,65,68ないし70)及び弁論の全趣旨によれば,本件加害行為により,本 件被害女性らのうち,控訴人鄧玉民はPTSDに罹患し,控訴人黄有良,同陳亜扁,同譚亜洞,同林亜金及び同陳金玉はいずれも「破局的体験後の持続的人格変 化」に罹患していることが認められ,亡譚玉蓮及び亡黄玉鳳はいずれもPTSDに罹患していたものと推認することができる。

(2)PTSDの病態等について
世界保健機関(WHO)が世界共通の分類として設定しており,厚生労働省も依拠している精神障害の疾病分類基準であるICD-10によれば,PTSDの病態等は,次のとおりである。

ア PTSDとは,ほとんど誰でも大きな苦悩奮引き起こすような,例外的に著しく脅威的な,あるいは破局的な性質を持ったストレスの多い出来事ある いは状況(短期間若しくは長期間に持続するもの)に対する遅延した,及び又は,遷延した反応として生ずる精神障害をいうが,PTSDが医学の分野に診断概 念として登場したのは古いことではない。第一次世界大戦に参加した兵士の中に,「精神錯乱,不安,恐怖症,心因性の失明や歩行障害,興奮,暴行,抑うつ, 過敏,不眠,悪夢,夜驚(眠っている時,急に不安になって飛び起きること)などの症状がみられた。この精神症状は,

当初,連合国の医師は,凄まじい砲火の影響による脳損傷として「砲弾ショック」と呼んでいたが,次第に精神的なものと考えられるようになり,「戦争 神経症」又は「外傷性神経症」と呼ばれるようになった。この戦争神経症の研究が進み,上記精神症状は,1952年のアメリカ精神医学会の診断基準 (DSM-Ⅰ)において,「大ストレス反応」と呼ばれる項目が立てられた。これは,それまでの病前性格や幼少時の体験を重視する神経症理論とは一応離れ て,自我の耐え難い体験とストレス状態そのものに注目して診断項目が新しく作られたものであった。 その後,アメリカでは戦争のない時代がしばらく続い て,1968年の改定診断基準(DSM-Ⅱ)では,「大ストレス反応」の項目は消えたが,ベトナム帰還兵の多くが特異な精神症状を呈したため,研究が進 み,1980年の改定診断基準(DSM-Ⅲ)において,ようやくPTSD(外傷後ストレス障害)という概念が認められた。そして,1992年の世界保健機 関(WHO)による国際疾病分類(ICD-10)でも,PTSDが登録された。

イ その典型的な諸症状は,ある種の「無感覚」と情動鈍化,他人からの離説,周囲への鈍感さ,アンヘドニア(快楽の喪失),トラウマを想起させる活 動や状況の回避が持続し,そのような背景があるにもかかわらず生ずる侵入的回想(フラッシュバック)あるいは夢の中で,反復して外傷を再体験するエピソー ドが含まれる。一般に,患者に元のトラウマを思い起こさせる手掛かりとなるものへの恐れの回避がある。まれには,トラウマあるいはそれに対する元の反応を 突然想起させる,及び又は,再現させる刺激に誘発されて,恐怖,パニックあるいは攻撃性が劇的に急激に生ずることもある。通常,過剰な覚醒を伴う自律神経 の過覚醒状態,強い驚愕反応及び不眠が認められる。

PTSDは,トラウマ後,数週か数か月にわたる潜伏期間(しかし,6か月を越えることは稀である。)を経て発症する。その経過は動揺するが多数の症例で回復が期待できる。一部の患者では,状態が多年にわたり慢性の経過を示し,持続的人格変化へと移行することがある。

ウ 上記のような臨床症状が典型的であり,他にいかなる障害(たとえば,不安,強迫性障害,あるいはうつ病エピソード)も同定できなければ,出来事 から発症までの遅れが6か月以上であっても,推定診断は可能であろうとされる。トラウマの証拠に加えて回想,白昼夢,あるいは夢における出来事の反復的, 侵入的な回想あるいは再現がなければならない。

(3)「破局的体験後の持続的人格変化」について
ア 以前に人格障害のない人に,破局的なあるいは過度に持続するストレスに続いて,あ るいは重症の精神科的疾患に続いて,発展した成人期の人格と行動に障害が生ずる場合がある。これを「破局的体験後の持続的人格変化」という。ストレスは, 人格への深刻な影響を説明するのに個人の脆弱性を考慮する必要がないほど極端なものでなければならない。強制収容所体験,拷問,大惨事,人質になるあるい は殺害される可能性が切迫している持続的な捕らわれの身であることなどの生命を脅かす状況に持続的にさらされることなどである。

 「破局的体験後の持続的人格変化」は,ヨーロッパでは,ナチスの収容所の生存者の研究から知られるようになったが,日本の精神医学では,ほとんど 知られていない。なお,アメリカ精神医学会の改定診断基準であるDSM-Ⅳによって立つ心的外傷の研究者ジュディス・L・ハーマンは,長期反復性外傷後の 人格の深刻なゆがみを「複雑性PTSD」という新しい名称で捉えているが,それは「破局的体験後の持続的人格変化」と関連する障害である。

イ 「破局的体験後の持続的人格変化」は,持続的であり,柔軟性を欠く適応障害の特徴を示し,対人的,社会的及び職業的な機能の障害に至るものである。

ウ 「破局的体験後の持続的人格変化」の診断においては,

  1. 世間に対する敵対的なあるいは疑い深い態度,
  2. 社会的な引きこもり,
  3. 空虚感あるいは無力感,
  4. あたかも絶えず脅かされているような「危機に瀕している」という慢性的な感情,
  5. よそよそしさという人格特徴の存在を確かめることが不可欠である。

そして,このような人格変化は,少なくとも2年間存在しなければならず,それ以前のパーソナリティー障害あるいは外傷後ストレス障害以外の障害に起 因するものであってはならない。同じような臨床的病像を造り出す粗大な脳損傷あるいは脳疾患の存在も除外されなければならないとされている。

3 争点1(本件加害行為について日本民法709条及び715条が適用されるか。)について
本件訴訟は,本件被害女性ら及びその相続人 らが,破控訴人に対し,第二次世界大戦(日中戦争)当時において中華民国海南島を占領していた日本軍の軍人が本件被害女性らに対して行った本件加害行為を 原因として発生した損害につき不法行為による損害賠償の支払を求め,その後本件訴え提起までの間において被控訴人が本件被害女性らの名誉回復の措置をとら ずに放置してきたことを違法であるとして,名誉回復の措置(主位的には謝罪文の交付,予備的には謝罪広告の掲載)と損害賠償の支払を求めるものであるか ら,本件に対する法律の適用は,法例(明治31年法律第10号)11条1項の規定により,本件加害行為による損害賠償請求については本件加害行為当時の中 華民国の法律が適用されることになる(法の適用に関する通則法(平成18年法律第78号)附則3条4項)。

ところで,控訴人らは,本件加害行為による損害賠償請求について,中華民国において1929年11月22日公布された(1930年施行)中華民国民 法(184条「故意又は過失により他人の権利を不法に侵害したる者は損害賠償の責任を負う」,185条「共同不法行為者は連帯して損害賠償責任を負 う」,186条「公務員が故意に職務の執行について第三者に損害を与えたときは損害賠償責任を負う」,188条「使用者は連帯して損害賠償責任を負う」) の規定に基づく損害賠償請求に併せて,日本民法709条又は715条に基づきこれを請求していたが,原審第16回口頭弁論期日において陳述した平成18年 3月22日付け「原告ら最終準備書面」において中華民国民法に基づく不法行為責任についての主張を撤回し,上記請求を日本民法709条又は715条に基づ く請求に一本化した(同準備書面33頁)。当裁判所は,上記の審理経過にかんがみ,本件加害行為による損害賠償請求については,これにつき日本民法が適用 されるものとした場合の上記損害賠償請求の成否について判断することとする。

(1)いわゆる国家無答責の原則が適用されないことについて
上記認定事実によれば,本件加害行為は,中国海南島に侵攻してこれを占領し た日本軍の軍人(士官を含むものと推認される。)により行われたものであるが,戦争行為,作戦活動自体又はこれに附随する行為ではなく,非戦闘員(一般市 民)であった本件被害女性らを拉致,連行して長期間監禁するなどして,繰り返し性暴力を加えたという残虐非道なもので,当時においてもハーグ陸戦条約及び ハーグ陸戦規則等の国際法に反していたことが明らかであり,戦争行為,作戦活動自体又はこれに付随する行為とはいえず,国の公権力の行使に当たる行為とは 認められない。したがって,日本法が適用される場合においても,本件加害行為について,いわゆる国家無答責の原則は適用されず,民法の規定によって被控訴 人の責任の有無を判断すべきである。

(2)民法709条の規定が適用されないことについて
控訴人らは,本件加害行為は,日本国家自体の組織的な不法行為であり,被控訴人は 民法709条に基づき損害賠償義務を負うと主張する。しかしながら,前記認定のとおり,当時は既に,ハーグ陸戦条約及びハーグ陸戦規則が日本において発効 していたのであり,ハーグ陸戦条約により「締約国は,其の陸軍軍隊に対し,本件条約に附属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すべし。」と 定められていたことを考慮すると,日本陸海軍においてもハーグ陸戦規則が占領地住民との関係で占領軍が遵守すべきこととして定める「家の名誉及び権利,個 人の生命,私有財産,並びに宗教の信仰及其の遵行は之を尊重すべし。私有財産は之を没収することを得ず。」との定めに適合する「訓令」が発令されていたも のと推認されるし,強姦が刑法により処罰されるほか,陸軍刑法及び海軍刑法においても,陸海軍軍人による戦地又は軍の占領地における強姦又は強姦致死傷に ついては刑法よりも重い刑罰をもって処断することとしていたことが認められる事実関係の下において,本件加害行為をもって,日本軍の正規の命令や作戦活動 及び占領政策から行われたものであることを認めるに足りる的確な証拠はないといわざるを得ず(本件被害女性らの中には,慰安所に監禁されていた女性もいた ことが認められるが,日本軍が中華民国国民である上記本件被害女性らを正規の命令に基づいて慰安婦として慰安所に監禁していたとまでは認めるに足りる的確 な証拠はない。),これに関与した日本軍人が作戦活動から離れて,又は作戦活動とは別に何らの権限や正規の命令に基づかず,自らの性欲を満足させるために 行ったものと推認されるのであって,日本国の一連の諸政策に基づくものであるとも,その諸政策が必然的に生み出したものであるとも認めるに足りない。ま た,日本国政府の意思決定に従って開始された中国ヘの軍事介入及び日中戦争における戦闘行為が,日本軍人が本件加害行為を犯す原因となった面があるとして も,本件加害行為をもって,日本国家自体の組織的な不法行為とまでは認めるに足りない。控訴人らの上記主張は採用することはできない。

(3)民法715条が適用されることについて
本件加害行為は,上記のとおり,これに関与した日本軍人らの職務執行行為そのものに該当す るとは認められないが,上記認定事実によると,日本軍の戦闘行為及び占領行為と密接な関連を有すると認められ,これによって本件被害女性らが被った損害 は,被控訴人の被用者である日本の軍人がその事業の執行につき加えた損害に当たるというべきである。したがって,日本軍人らの本件加害行為により本件被害 女性らが被った著しい身体的・精神的損害につき,被控訴人の本件被害女性らに対する民法715条1項に基づく損害賠償義務の発生が認められ,本件被害女性 らは,被控訴人に対し,その損害賠償請求権を取得したものと認められる。

4 争点4(日華平和条約,日中共同声明等によって本件加害行為から生じた本件被害女性らの被控訴人に対する賠償請求権が放棄されたか。)について
第二次世界大戦後の戦争被害に関する日本国と中国との交渉経緯及び日中共同声明発出等の経緯は,次のとおりである(公知の事実,当裁判所に顕著な事実,弁論の全趣旨)。

 

  1. 日本国は,昭和20年8月15日,ポツダム宣言を受諾して降伏し,これにより第二次世界大戦が終了した。
  2. 昭 和26年,サンフランシスコ講和会議が開かれ,アメリカ合衆国を中心とする連合国と日本国との間にサンフランシスコ平和条約が締結されて日本国が独立を回 復した。中華民国では,第二次世界大戦後,国民党と共産党の対立が表面化し,中国大陸では昭和24年10月1日に,共産党を中心として中華人民共和国の建 国が宣言され,国民党政府は,台湾に移った。中華民国は,第二次世界大戦での日本に対する主要な交戦国ではあったが,サンフランシスコ講和会議には,中華 民国政府及び中華人民共和国政府のいずれも招請されなかった。

サンフランシスコ平和条約は,次のような内容を含んでいた。
ア 条約締結の目的
連合国及び日本国は,両者の関係が,今後,共通の福祉を増進しかつ国際の平和及び安全を維持するために主権を有する対等のものとして友好的な連携の下に協 力する国家の間の関係でなければならないことを決意し,よって,両者の間の戦争状態の存在の結果として今なお未決である問題を解決する平和条約を締結する ことを希望する。……(後略)。(前文)

イ 戦争状態の終了,日本国の主権承認
(ア)日本国と各連合国との間の戦争状態は,この条約が効力を生ずる日に終了する。(1条(a))
(イ)連合国は,日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。(1条(b))

ウ 領土権の放棄
日本国は,台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。(2条(b))

エ 中国における権益の放棄
日本国は,1901年9月7日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書,書簡及び 文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し,かつ,前記の議定書,附属書,書簡及び文書を日本国に 関して廃棄することに同意する。(10条)

オ 賠償及び在外財産の処理
(ア)日本国は,戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して,連合国に賠償を支払うべきことが承認される。し かし,また,存立可能な経済を維持すべきものとすれば,日本国の資源は,日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い,かつ同時に他の債 務を履行するためには現在充分でないことが承認される。(14条(a))

(イ)日本国は,現在の領域が日本国軍隊によって占領され,かつ,日本国によって損害を与えられた連合国のうち,希望する国との間で,生産,沈船引 湯げその他の作業における日本人の役務を提供すること(いわゆる役務賠償)によって,与えた損害を当該連合国に補償するために,すみやかに交渉を開始しな ければならない。(14条(a)1)

(ウ)各連合国は,外交及び領事財産等,一定の例外を除き,その管轄下にある日本国及び日本国民等の財産,権利及び利益等を差し押え,留置し,清算し,その他何らかの方法で処分する権利を有する。(14条(a)2)

(エ)この条約に別段の定めがある場合を除き,連合国は,連合国のすべての賠償請求権,戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。(14条(b))

カ 非連合国にある日本資産
日本国の捕虜であった間に不当な苦難を被った連合国軍隊の構成員に償いをする願望の表現として,日本国は, 戦争中中立であった国にある又は連合国のいずれかと戦争していた国にある日本国及びその国民の資産,又は,日本国が選択するときは,これらの資産と等価の ものを赤十字国際委員会に引き渡すものとし,同委員会は,これらの資産を清算し,かつ,その結果生ずる資金を,同委員会が衡平であると決定する基礎におい て,捕虜であった者及びその家族のために,適当な国内機関に対して分配しなければならない。(16条)

キ 日本国による請求権の放棄
日本国は,戦争から生じ,又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びそめ国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄する。(19条(a))

ク 中国の受ける利益
中国は,10条及び14条(a)2の利益を受ける権利を有する。(21条)

(3)中国は,連合国の一員として,本来,講和会議に招請されるべきであったがレ昭和24年10月1日に成立した中華人民共和国政府と,台湾に本拠 を移した中華民国政府が,いずれも自らが中国を代表する唯一の正統政府であると主張し,連合国内部でも政府承認の対応が分かれるという状況であったため, 結局,いずれの政府も講和会議には招請しないこととされた。ただし,サンフランシスコ平和条約10条(日本国の中国における権益の放棄),14条 (a)2(在外資産の処分)に関しては,上記のとおり,中国はサンフランシスコ平和条約の定める利益を受けるものとされた(同条約21条)。

(4)日本国政府は,その後,サンフランシスコ平和条約の当事国とならなかった諸国についても,二国間平和条約等を締結すべく交渉を行うこととなっ たものの,最大の懸案は,講和会議に招請されなかった中国との関係であるが,日本国政府は,昭和27年4月28日,中華民国政府を中国の正統政府と認め, 同政府との間で,日華平和条約を締結し,同条約は同年8月5日に発効した。この条約には,日本国と中華民国との間の戦争状態がこの条約の効力発生の日に終 了すること(1条),両国間に戦争状態の存在の結果として生じた問題はサンフランシスコ平和条約の相当規定に従って解決するものとすること(11条)等の 条項があり,また,条約の不可分の一部をなす議定書(日華平和条約議定書)の条項として,中華民国は,日本国民に対する寛厚と善意の表徴として,サンフラ ンシスコ平和条約14条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄すること(議定書1(b))が定められている。さらに,この条約の附 属交換公文(日華平和条約に関する交換公文)において,この条約の条項が,中華民国に関しては,中華民国政府の支配下に現にあり,又は今後入るすべての領 域に適用があることが確認されている(1号)。

(5)中国においては,その後も,中華人民共和国政府と中華民国政府が,ともに正統政府としての地位を主張するという事態が続いたが,日本国政府 は,田中角栄内閣の下で,中華民国政府から中華人民共和国政府への政府承認の変更を行う方針を固め,いわゆる日中国交正常化交渉を経て,昭和47年9月 29日,日中共同声明が発出されるに至った。この声明中には,「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は,この共同声明が発出される日に 終了する。」(1項),「日本国政府は,中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。」(2項),「中華人民共和国政府は,中日両国 国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」(5項)等の条項がある。
 日中両国政府は,昭和53年8月12日,日中平和友好条約を締結し,この条約は同年10月23日に発効したが,この条約の前文においては,日中共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認する旨が規定されている。

(6)サンフランシスコ平和条約の枠組による請求権の放棄
サンフランシスコ平和条約は,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを前提として,日本国は,連合国に対する戦争 賠償の義務を認めて連合国の管轄下にある在外資産の処分を連合国にゆだね,役務賠償を含めて具体的な戦争賠償の取決めについては,啓達合図との間で個別に 行うという日本国の戦後処理の枠組みを定めるものであった。この枠組みは,連合国48か国との間で締結されこれによって日本国が独立を回復したというサン フランシスコ平和条約の重要性にかんがみ,日本国がサンフランシスコ平和条約の当事国以外の国や地域との間で平和条約等を締結して戦後処理をするに当たっ ても,その枠組みとなるべきものであり,サンフランシスコ平和条約の枠組みは,目本国と連合国48か国との間の戦争状態を最終的に終了させ,将来に向けて 揺るぎない友好関係を築くという平和条約の目的を達成するために定められたものであり,この枠組みが定めちれたのは,平和条約を締結しておきながら戦争の 遂行中に生じた種々の請求権に関する問題を,事後的個別的な民事裁判上の権利行使をもって解決するという処理にゆだねたならば,将来,どちらの国家又は国 民に対しても,平和条約締結時には予測困難な過大な負担を負わせ,混乱を生じさせることとなるおそれがあり,平和条約の目的達成の妨げとなるとの考えによ る'ものと解される。  サンフランシスコ平和条約の枠組みにおける請求権放棄の趣旨が,上記のように請求権の問題を事後的個別的な民事裁判上の権利行使による解決にゆだねるの を避けるという点にあることにかんがみると,ここでいう請求権の「放棄」とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に 基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である(平成19年最高裁判決参照)。

(7)日中共同声明5項の意義
日中共同声明5項は,「中華人民共和国政府は,中日両国国民の友好のために,目本国に対する戦争賠償の請 求を放棄することを宣言する。」と述べる。その趣旨については,公表されている日中国交正常化交渉の公式記録や関係者の回顧録等に基づく考証を経て今日で は公知の事実となっている交渉経緯等を踏まえて考えた場合,日中共同声明は,平和条約の実質を有するものと解すべきである。  ところで,サンフランシスコ平和条約の枠組みは,平和条約の目的を達成するために重要な意義を有していたのであり,サンフランシスコ平和条約の枠組みを 外れて,請求権の処理を未定のままにして戦争賠償のみを決着させ,あるいは請求権放棄の対象から個人の請求権を除外した場合,平和条約の目的達成の妨げと なるおそれがあることが明らかであるが,日中共同声明の発出に当たり,あえてそのような処理をせざるを得なかったような事情は何らうかがわれず,日中国交 正常化交渉において,そのような観点からの問題提起がされたり,交渉が行われた形跡もないのであるから,日中共同声明5項の文言上,「請求」の主体として 個人を明示していないからといって,サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる処理が行われたものと解することはできない。

以上によれば,日中共同声明は,サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる趣旨のものではなく,請求権の処理については,個人の請求権を含め,戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを明らかにしたものというべきである(平成19年最高裁判決参照)。

(8)日中共同声明5項による請求権放棄の対象
サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいては,請求権の放棄とは,請求権に基づいて裁判 上訴求する権能を失わせることを意味するのであるから,その枠組みとは異なる趣旨のものではないと解される日中共同声明5項が定める請求権の放棄の趣旨 も,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権についての裁判上訴求する権能を放棄したものと解すべ きである。その結果,そのような請求権に基づく裁判上の請求に対し,同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張されたときは,当該請求は棄却を免れないこととな る(平成19年最高裁判決参照)。

(9)本件被害女性らの本件加害行為を原因とする被控訴人に対する損害賠償請求権の放棄
本件被害女性らの上記認定に係る損害賠償請求権 は,いずれも本件加害行為によって精神障害を受けたことを理由とするものであるから,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国に対する請求 権であるというべきである。したがって,本件被害女性らの損害賠償請求権は,日中共同声明5項により,裁判上訴求する権能を失ったものであるから,被控訴 人から,同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張された以上,控訴人らの損害賠償請求は棄却を免れない。

5 本件被害女性らに対して行われた本件加害行為を原因とする控訴人らの被控訴人に対する損害賠償請求に対する判断のまとめ
以上のとお りであり,本件加害行為による損害について日本民法が適用されるものとした場合の争点1(本件加害行為に日本民法709条及び715条が適用されるか。) についての当裁判所の判断は,民法709条の適用についてはこれを否定するが,民法715条の適用につきこれを肯定し,被控訴人は,本件加害行為により本 件被害女性らが被った損害について,民法715条に基づき,本件被害女性らに対して損害賠償義務を負担したと判断するものである。

次に,争点4(日華平和条約,日中共同声明等によって本件加害行為から生じた本件被害女性らの被控訴人に対する賠償請求権が放棄されたか。)につい ての当裁判所の判断は,上記のとおり,本件加害行為を原因とする本件被害女性らの被控訴人に対する損害賠償請求権は,日中共同声明5項により放棄され,裁 判上訴求する権能を失ったと判断するものであり,被控訴人から上記日中共同声明5項による請求権放棄の抗弁が主張されている本件においては,本件被害女性 らに対して行われた本件加害行為を原因とする控訴人らの被控訴人に対する損害賠償請求は棄却を免れないということになる。したがって,争点2(本件加害行 為に基づく損害賠償請求権は,民法724条後段の除斥期間が経過したことにより消滅したか。)については,判断を要しないこととなる。

6 争点3(戦後被控訴人が本件被害女性らの名誉を回復する措置を講じなかったことについて,被控訴人に作為義務違反があるか。)についての判断
当 裁判所も,戦後,被控訴人の内閣又は国会が本件被害女性らの名誉回復措置を講じなかったことについて,作為義務の違反があるとはいえず,これに基づく控訴 人らの請求は理由がないものと判断する。その理由は,原判決「事実及び理由」欄の「第3当裁判所の判断」の4(原判決47頁19行目から50頁23行目ま で)の理由説示と同一であるから,これをここに引用する(だだし,原判決50頁8行目から9行目にかけての「最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判 決・民集39巻7号1512頁参照」を「最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁,最高裁平成 13年(行ツ)第82号,第83号,同年(行ヒ)第76号,第77号同17年9月14日大法廷判決・民集59巻7号2078頁各参照」に改める。)。

7 当審における控訴人らの主張について
(1)個人の賠償請求権は放棄することができないとの主張について
控訴人らは,昭 和56年8月1日に発効した条約法に関するウィーン条約,昭和28年10月21日に発効したジュネーブ第4条約(戦時における文民の保護に関する条約)等 の種々の理由を挙げて,本件被害女性らの損害賠償請求権のごとき個人の損害賠償請求権は,日中共同声明5項により放棄されていない旨主張する。

しかし,条約法に関するウィーン条約は,4条において同条約の不遡及を規定しているものであり,また,ジュネーブ第4条約は,6条1項において「こ の条約は,第2条に定める紛争又は占領の開始の時から適用する。」と定め,2条は「二以上の締約国の間に生じるすべての宣言された戦争又はその他の武力紛 争の場合(1項)」「一締約国の領域の一部又は全部が占領されたすべての場合(2項)」「紛争当事国の一がこの条約の締約国でない場合にも,締約国たる諸 国の相互の関係(3項前文)」「締約国でない紛争当事国がこの条約の規定を受諾し,且つ,適用するとき(3項後文)」に同条約を適用すると規定しているか ら,同条約が発効する前の戦争である日中戦争について,同条約が適用されるものではないと解される。

そして,国家は,戦争終結に伴う講和条約の締結に際し,対人主権に基づき,個人の請求権を含む請求権の処理を行い得るのであり,平和条約の実質を有 する日中共同声明は,昭和26年9月8日に締結され同27年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる趣旨のものではなく,請求権の 処理については,個人の請求権を含め,日中戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄することを明らかにした,サンフランシスコ平和条約の枠組みと 共に在るものであって,加えて,日中両国政府は,国際法上条約としての性格を有することが明らかな日中平和友好条約において,日中共同声明に示された諸原 則を厳格に遵守する旨を確認しているのであり,ここにおいて,中華人民共和国国民の上記請求権を放棄する旨の日中共同声明5項の内容が改めて確認されたも のというべく,日中共同声明5項の内容が日中両国においても条約としての法規範性を獲得したというべきであり,いずれにせよ,その国際法上の法規範性が認 められることは明らかである。

そして,前記のとおり,サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいては,請求権の放棄とは,請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせることを意味 するのであるから,その内容を具体化するための国内法上の措置は必要とせず,日中共同声明5項が定める請求権の放棄も,同様に国内法的な効力が認められる というべきであるから,控訴人らの上記主張は,採用することができない。

(2)日中共同声明5項の放棄の対象ではないとの主張について 日中共同声明5項によって,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は,裁判上訴求する権能を失っ たもめと解すべきところ,本件被害女性らが罹患したPTSD又は「破局的体験後の持続的人格変化」も,上記認定のとおり,日中共同声明後の研究によってそ れらの病態等が明らかになったものにすぎず,日中戦争遂行中の日本軍による本件加害行為の結果生じたものに変わりはないから,日中共同声明5項により,裁 判上訴求する権能を失ったものというべきである。

なお,控訴人らは,日中共同声明発出当時,日中両国政府は,本件被害女性らの損害賠償請求権を認識していなかったから,本件被害女性らの損害賠償請 求権は,同声明5項による放棄の対象とはならない旨主張する。しかし,上記説示のとおり,日中共同声明5項は,国家間の合意として,平和条約の実質を有す る日中共同声明の目的達成のために,日中戦争遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権については,中華人民共 和国及び被害者たるその国民がその損害の発生を認識していたか否かに関わりなく,裁判上訴求する権能を放棄したものといえるのであるから,仮に,日中両国 政府が日中共同声明発出当時に本件被害女性らの個々の損害賠償請求権の存在を認識していなかったものとしても,日中共同声明5項により,本件被害女性らの 損害賠償請求権についての裁判上訴求する権能は放棄されたものというべきである。

(3)最恵国待遇により請求権の放棄がされていないとの主張について
サンフランシスコ平和条約26条後段は,「日本国が,いずれかの国 との間で,この条約で,定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは,これと同一の利益は,この条約の当事国 にも及ぼさなければならない。」と規定するが,この規定により権利を主張することができるのは「この条約の当事国」,すなわち,条約締結国であって,その 国民がこの規定に基づく主張をすることを認めた規定ではないと解するのが相当である。そして,日中両国政府は,控訴人らの主張するオランダ国民に対する見 舞金名目での補償及びスウェーデンに対する725万クローネの支払の後である昭和47年9月29日に日中共同声明を発出したのであるから,中華人民共和国 政府がサンフランシスコ平和条約26条後段による権利を主張しない意思を明らかにしていることは明白である。控訴人らの上記主張は採用することができな い。

(4)事情変更の原則により日中共同声明5項が適用されないという主張について 控訴人らは,本件被害女性らにPTSDや「破局的体験後の持続的人格変化」という精神疾患が発症することは,日中共同声明発出時には予想することができな かった重大な事情の変更に当たるから,事情変更の法理により,本件被害女性らの損害賠償請求権については,日中共同声明5項の適用を認めるべきではないど 主張するが,上記(2)に認定説示したとおり,本件被害女性らが罹患したPTSD及び「破局的体験後の持続的人格変化」も本件加害行為の結果生じたものに 変わりはなく,日中共同声明発出後の研究によってその病態が明らかになったものに過ぎないから,事情変更の法理を適用すべき前提を欠くものというべきであ る。控訴人らの上記主張も採用することはできない。

(5)行政不作為に基づく賠償請求について
控訴人らは,戦後,被控訴人が本件被害女性らの名誉を回復する措置を講じなかったことにつき 被控訴人に作為義務違反があるとする根拠について,原審において主張していた違法な先行行為に基づく条運上の作為義務,憲法13条,国家賠償法1条,ポツ ダム宣言の受諾,降伏文書の作成及びサンフランシスコ平和条約の締結による作為義務に加えて,当審において,オランダ国民に対する見舞金名目による補償, アジア女性基金を通じての被害者に対する「償い金」の支払や医療支援を被控訴人が行ったこと,国際社会が権威ある機関を通して日本政府に対し公式謝罪と国 家賠償を柱とする対応措置をとるよう相次いで求めたこと,アメリカ合衆国下院を始やとする各国議会の決議が日本政府に対し,謝罪と補償を求めていることを も被控訴人が作為義務を負う根拠として主張する。しかしながら,控訴人らが当審で新たに主張した事実を併せて総合的に考慮しても,上記引用に係る原判決理 由説示(原判決47頁19行目から50頁23行目まで)のとおり,控訴人ら主張のような措置を行う法的義務が被控訴人の内閣に生じたとはいえないのであっ て,内閣の不作為を違法ということはできないし,本件被害の救済を図る法案を国会に提出しなかったことが国家賠償法上違法と評価される職務懈怠に当たると もいえず,国会議員の不作為に国家賠償法上の違法があるということもできない。

また,控訴人らは,日中共同声明5項により請求権(訴求権)が放棄されても,本件被害女性らの被控訴人に対する不法行為に基づく損害賠償請求権が自 然債務類似の実体上の権利として残存しているとして,上記の各事実を根拠として,被控訴人は実体上の権利として残存している控訴人らの損害賠償権に対応す る作為義務を負担したものというべきであるのに,本件加害行為により控訴人らが被った損害の填補,補償をせずに放置してきたことは違法であるとも主張する が,この主張が理由のないものであることは上記のところから明らかである。

8 結論
以上の認定及び判断によれば,控訴人らの本件請求は,その余の点について判断するまでもなく,いずれも理由がないからこれを棄 却すべきところ,当裁判所の上記判断と同旨の原判決は結論において相当であるから,控訴人らの本件控訴を棄却することとして,主文のとおり判決する。

東京高等裁判所第21民事部
裁判長裁判官 渡邉 等 裁判官 西口 元 裁判官 山口 信恭

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