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【平頂山事件】方 素栄さん陳述書(日本語訳)

2004年12月3日東京高裁101号法廷

中華人民共和国雲南省*****
方 素栄

1 はじめに

(1)私は平頂山事件の犠牲者であり,この事件で日本国を訴えている方素栄です。もとの名前は韓暁鐘といいました。
1932年9月16日の平頂山事件で,私の両親と叔母(父の妹),父方の祖父母と私の二人の弟は,いずれも日本兵によって残虐に殺されました。事件当時,私はまだ満4歳でした。

(2)事件によって私が受けた被害については,2000年2月25日付けの私の陳述書に書かれてあることと,同じ日に東京地方裁判所で私が証言したとおり ですので,ここでは繰り返しません。私や同じく原告の莫徳勝さん,楊宝山さんが受けた被害がどれほど悲惨なものであったのかは非常に明白だと思います。
ところが,2002年6月28日に言い渡された東京地方裁判所の判決は,私たちの被害の事実を認定しながらも,日本政府の主張だけを認めて,損害賠償の請求を否定しました。被害の事実を認めながら,どうして損害賠償を命じないのか,私には全く理解できません。

(3)私たちの請求に対して日本政府は,私たちが訴訟を起こすまでに時間が経ち過ぎているので,時効によって私たちの請求権が消滅したと主張しているそう です。しかし,これはたいへん酷い主張であり,とても納得できることではありません。なぜなら私たちは,裁判ができるのに放っておいたのではなく,裁判を したくてもできなかったからです。
そこでこの陳述書では,私がこの裁判を起こすまでの経緯について述べることにします。同時に,私の家にあった様々な写真や資料についても説明していきたいと思います。

2 私と家族の写真

(1)私の手元には現在も何枚かの写真があります。
その写真の一枚は,満年齢2歳くらいの私の写真です。見ておわかりのように,とても綺麗な服を着ています。その頃の私は,このような服を普段から着ていま した。私の父は時計修理屋をやっていて,その店がとても繁盛していたので,私の家は普通の家庭よりずっと裕福だったのです。
私の母親の韓方氏の写真や,上の弟の写真も残っています。母は事件のとき機関銃の銃弾を受けて殺されました。上の弟は機関銃掃射の後に「お母さん!」と叫んでいたところを日本兵によって銃剣で突き刺され,上に放り投げて殺されてしまいました。

(2)これらの写真は,いずれも事件の後に私が手に入れたものです。
父の時計修理屋は,もとは千金寨にありましたが,その後平頂山に移転したものです。当時の平頂山は新しく開拓された集落で,私の家族は平頂山に土地を買ってお店も移転させたのでした。祖父は炭鉱労働者で,平頂山に移転してから雑貨屋を始めました。
千金寨に父の店があったときに,道の向かい側にあったのが「栄華照像館」という写真屋でした。そのため写真屋の主人は私たちの家族をよく知っていて,平頂山に引っ越した後に平頂山事件が起きたことももちろん知っていました。

(3)平頂山事件の後,千金寨に住んでいた母方の叔父(母の弟)の家に私は預けられました。幸存者であることが知られないように,名前も方素栄と変えて生活していました。
叔父の家で育ててもらったことには感謝していますが,実の子供とはいつも差別され,家族のいない私はとても辛い思いをしていました。

(4)私が9歳頃のことですが,この「栄華照像館」の主人が,「ちょっと来なさい」と私を呼び止めました。そして「私のところにあなたの家族の写真がある よ」と言って,母と弟,そして私の写真をくれたのでした。写真屋の主人は,私の境遇を知っていて私に同情して写真をくれたのです。しかし,祖父母や父の写 真はありませんでした。
4歳の頃に事件に遭い,その後5年ものあいだ,私は家族のいない生活をしてきました。家族の顔すら思い出せなくなっていました。この写真を見てやっと母や 弟の顔を思い出すことができて,私は泣き出してしまいました。そして,写真を取っておいて私にくれた写真屋さんにも心から感謝しました。

(5)それ以来,この写真をとても大事にしてきました。他人の親子が仲良くしているところを見たり,辛いことがあったときなどに,私はこの写真を取りだし ては眺めて泣いていました。しかし母と弟以外の家族の写真,特に私を一番大事にしてくれた祖父の写真がないので,私は大好きだった祖父の顔を思い出すこと ができません。
私は写真を見るたびに悲しくなり,色々なことを思って泣いていました。母の写真を見ると,最後に頭から白いものが飛び出して死んでいた母の姿を思い出して しまいます。綺麗な着物を着た自分の写真を見ると,家族に囲まれ家庭の中心だった頃の幸せな生活を思い出してしまいます。
そして日本人をとても恨みました。当時は日本人と日本軍の区別もわからず,とにかく日本人を恨んでいました。日本人が私の家族を殺さなければ,私は今でも幸せだったはずなのにと思いました。

3 参観台での証言集会

(1)日本は1945年に戦争に負け,その年の年末に私は前夫と結婚しました。前夫との間には女の子が一人いましたが,この子は1976年,26歳のときに交通事故で死んでしまいました。
撫順は1948年10月に解放され,1949年には中華人民共和国が成立しました。私はその頃から撫順市の西露天鉱で働くようになりました。1950年に 前夫が病死し,1952年1月に今の夫である曲永富と結婚しています。今の夫との間には二人の息子と一人の娘がいて,この三人の子供たちはみんな元気で す。

(2)私は1956年に,撫順の西露天鉱の「参観台」という場所で日本軍の戦犯たちに自分の悲惨な体験を語るよう,職場の上司から言われました。当時は知らされていなかったのですが,その戦犯たちの中には,偽満州国皇帝・愛新覚羅溥儀もいたとのことです。
私はそれまでも,職場や学校で自分の体験を話したことがあり,また遼寧省のラジオ局で話をしたこともありました。私は日本人をとても憎んでいたので,自分 の体験を話すときには日本人のことを「日本鬼子」と呼び,日本人に対する憎しみをそのまま表現していました。
しかし戦犯管理所の所長は,「悪いのは日本軍国主義であって日本人ではないのだから,日本人を憎んではいけない」と私のことを繰り返し教育しました。私は そのことになかなか納得できなかったので,証言をするまでの1ヶ月のあいだ,所長は何度も私のところにやってきて,私を説得しなければなりませんでした。 日本人と日本軍国主義を区別して,日本人の戦犯には反省してやり直す機会を与えなければならないというのです。
そのような所長の説得を,私は頭では一応理解することができました。しかし,感情的に納得することはできませんでした。今でも高齢の日本人を見ると恐怖を 覚えるのです。心底納得して日本人を許すことなどできるはずがありませんでした。日本に対する自分の恨みを晴らしたいという気持ちは,その後もずっと抱き 続けてきたのです。

(3)参観台での証言のときに,多くの日本人戦犯が涙を流し,自分の罪を悔いていたことは前回証言したとおりです。このときの証言集会の内容を,日本人の元戦犯や溥儀などがいくつか書いて残しています。

4 賠償請求権に対する認識

(1)夫が電気関係の技術者だったこともあり,夫の転勤に合わせて私も広東省,雲南省と転居して,1966年から現在の昆明市に住むようになりました。
夫は非常によい人で,私の気持ちをいつも察してくれます。私が平頂山事件の幸存者であることを夫はもちろん知っていました。夫は平頂山事件について,何の 罪もない3000もの人が殺されたのに,日本政府がこの事件に対して何もしておらず,誰も責任を問われていないという現状が不公平だと言います。これでい いのかという疑問をずっと抱き続けてきたそうです。そのため夫は,平頂山事件に関する新聞や雑誌の記事などに注意していて,色々な資料を集めるようになっ たのでした。それで,1950年代や1960年代の資料を現在も持っているのです。

(2)1972年の日中共同声明で,中国政府は日本に対する賠償請求を放棄しました。そのため,私も日本に対し賠償を請求することを諦めなければならないのかと思いました。当時は国家と民間は一緒だと思っていて,その区別すらわからなかったのです。
けれども私はそのときに,すごく大きな不満を感じました。あれだけ大勢の人が死んだのに,個人に対して何も賠償がなされないのでしょうか。しかし中国政府 が賠償請求を放棄すると言った以上,か弱い存在である国民の一人としては,どうすることもできませんでした。

5 民間対日賠償請求の記事

(1)このような状況を大きく変えたのが,1992年5月22日付の「文摘周刊」という新聞の記事でした。
この記事には,北京の童増という学者が全国人民代表大会に,日本政府に対する民間の賠償請求ができるとの意見書を提出したという内容が書かれてあったので す。1972年の日中共同声明で放棄されたのは中国政府の賠償請求権であり,被害者個人の損害賠償を請求することは中国政府とは別にできるということでし た。そのことを中国外交部も認めているという内容です。
この記事を見て,自分の被害の賠償を請求できる可能性があるということを私は初めて知りました。中国では,政府が認めていない活動をすることは極めて困難 です。しかしこの記事によって,中国政府が民間賠償請求を認めてくれるかも知れないと思いました。何かしたいという気持ちをずっと私は持ってきましたが, 何をすべきかがやっと少し見えてきたようでした。

(2)そこで私は,この記事に出てくる北京の童増という学者と連絡を取ろうと考えました。
この記事には,童増先生が中国老齢科学研究センターの研究員であると書かれてあります。そこで,雲南省の老齢委員会に問い合わせて,童増先生の連絡先の住 所と電話番号を教えてもらいました。また,当時北京に私たちの次男の曲直が住んでいましたので,童増先生が現在もその場所にいるのかどうかを次男にも確認 してもらいました。

(3)童増先生の連絡先がわかると,私は夫の曲永富と相談して手紙を書くことにしました。実際には,夫が私に代わって手紙を書いてくれました。
1992年6月2日付のその手紙の中で私は,童増先生の提唱した対日賠償請求についての考えを支持して賛成署名を送るとともに,童増先生が組織している民間対日賠償請求の活動に参加させてもらいたいと希望を伝えました。

(4)これに対して,童増先生からは6月5日付で返事が来ました。
その手紙には,私の受けた被害に同情すると書かれてあり,署名用紙を同封したと書いてありました。この署名の中身は,戦争被害者あるいは被害者の遺族が日 本に対して損害賠償を求めるとの内容でした。またこの手紙には,私に対して対日賠償請求訴訟の発起人の一人になって欲しいと書かれてありました。そしてこ の署名を日本大使館を通じて日本政府に提出するか,あるいは国連の国際司法裁判所で日本政府を訴えるということでした。
さらにこの手紙には,署名を集めるときの注意事項が書かれてあります。その注意事項とは,

  1. 街頭署名は行わないこと
  2. この活動名目で公的に募金を募ることはしないこと
  3. 過激な言論を引き起こさないこと
  4. 毛筆または万年筆で署名して代筆は行わないこと,ただし署名用紙は自分でコピーしてよいこと
  5. 大学や専門学校等で署名活動を行わないこと

の5点でした。

(5)この頃,中国では国内の治安の安定が最優先とされていた時期でした。天皇訪中も予定されており,中国政府は「日中友好」にも気を遣っていました。そ のため,北京で連絡の役割をしていた次男によれば,そのときの童増先生は行動の自由をかなり制限されていたということです。
つまりこの五つの注意事項は,今回の署名活動を公にはしないで,慎重に注意して進めるようにとの趣旨なのだということが私にも理解できました。

6 童増先生への返事

(1)この手紙をもらってから,私は1992年8月に撫順に戻ることにしました。
撫順に戻った目的の一つは,まずは自分の体験の裏付けを確認することです。裁判をやるからには,きちんとした証拠がなければなりません。私は夫と一緒に平頂山記念館に行き,私の被害のことが記録に残されているかどうかを確認しました。
また,1951年4月に幸存者を20~30名集めた座談会が撫順で開かれたことがあり,私も参加しました。日本政府を訴えるなら,こうした他の幸存者と一緒にやった方がいいと考えたので,そのような他の幸存者の所在を確認することがもう一つの目的でした。
撫順に戻った私は,当時平頂山記念館の館長だった?達先生と話をしました。?達先生から,撫順市内に二人の幸存者がまだ残っていることを教えてもらいました。しかしそのときは,二人の幸存者の住所がハッキリしていませんでした。
夫の甥の曲広言が撫順に住んでいたことから,その後はこの甥を通じて二人を捜すことにしました。このような経緯で,最終的には莫徳勝さんや楊宝山さんたちと裁判を起こすことになったのです。

(2)撫順から戻った後の1992年9月1日付けで,私は童増先生に返事を書きました。撫順に戻って準備をしたこと,自分の受けた被害の体験を文章に整理 したことを伝え,そして対日賠償請求の発起人となることについても,童増先生がよければ引き受けますと答えました。

7 手段の模索と停滞

(1)一方,その前日の8月31日付けの春城晩報という新聞に,強制連行強制労働の被害者劉連仁さんが,日本政府に謝罪と賠償を要求したという記事が載っていました。
私はどんな手段を使ってでも賠償請求を実現したかったので,この新聞の編集部にも手紙を送り,どのようなやり方をすれば日本政府に賠償請求できるのかを問い合わせてみたのです。
すると春城晩報から1992年9月9日付で返信がありました。この返事では,中国の外交部を通して日本と連絡を取るか,あるいは弁護士に依頼して日本政府 を訴えるかの方法があると教えてくれました。要するに,政治的方法と法律的方法の二つがあるというのです。しかし,それ以上に詳しいことはやはりわかりま せんでした。

(2)このように私は,どんな方法でもいいから対日賠償請求を実現させようと努力してきました。しかしなかなか進展せず,焦りを感じるばかりでした。
童増先生は,被害者を集めて組織を作り対日賠償を求める署名を集めると言っていましたが,その後どうするのかという話は何もありませんでした。
被害者が多すぎて手が回らないのか,行動の自由を制限された童増先生には他の手段がなかったのか,私にはわかりませんでした。ひたすら待っているしかなく,私は不安な日々を送っていました。

8 冀学勤さんの来訪

(1)1995年6月頃になって,冀学勤という女性が私のところにやってきました。冀学勤さんは童増先生の使いだと名乗り,色々な資料を持ってきてくれました。

(2)そのときに持ってきてくれたのが,1995年3月7日の銭其?外相発言を報じた台湾の新聞記事です。中国政府は民間の対日賠償請求を阻止しないと銭 外相が述べたことが報道されていました。これによって,対日賠償請求は中国政府の公認を取り付けることができたのです。
これまで対日賠償請求は,中国政府の慎重な対応によってなかなか進まず,童増先生も活動の自由を制限されていたけれど,これからは堂々と活動できることになったのです。

(3)そのとき冀学勤さんを通じて童増先生から言われたことの一つは,日本政府に対して起訴書を出そうということでした。
冀学勤さんは1993年8月発行の雑誌記事を持ってきていて,この中に書かれてある起訴書を参照して自分の起訴書を作成し,それを北京の日本大使館に送付 するように指示してくれました。また,このような起訴書をなるべく多くの被害者に書いてもらって,日本大使館に出すようにと言われました。
もう一つ童増先生から言われたのが,被害者ないし被害者の遺族の対日賠償を求める署名を数多く集めることでした。冀学勤さんは,童増先生が整理した雲南省 の被害者の名簿を持ってきていました。これは,童増先生の記事を見て連絡を取ってきた人のうち雲南省の人の名簿でした。そして,私に雲南省の被害者のとり まとめ役をやるように依頼してきたのです。

(4)このような冀学勤さんの話を聞いて,私はようやく対日賠償を進展させられると思い,とても嬉しくて興奮していました。
ちょうどその時期ですが,花岡事件の中国人の被害者たちが,日本で訴訟を起こした(1995年6月28日)という事件も報じられました。そのことも私をとても勇気づけ,大きく励まされました。自分たちも裁判を起こせるかも知れないと心から期待したのです。

9 起訴書送付と童増先生からの連絡

(1)私は自分の被害について,1995年7月20日付で起訴書を作成し,これを北京の日本大使館に宛てて送付しました。
一方,雲南省の被害者4名で集まって相談し,署名と起訴書の作成を呼びかける文書を1995年7月27日付で作成して,これを名簿の被害者たちに郵送しました。

(2)日本大使館に送った起訴書に対しては,日本政府からまじめな返事が来るだろうと期待していました。少なくとも返信くらいはあるだろうと信じていました。しかし,1995年末になっても日本政府からは何の反応も来ませんでした。

(3)一方,1995年12月16日付けで,童増先生から年賀状が来ました。
その年賀状には,すでに労工問題と「慰安婦」問題で日本国を相手とする裁判を起こしたことが書かれてありました。さらに平頂山事件についても日本の弁護士 に委任してあり,翌年に日本の弁護士が中国に来ると書いてありました。これを見て私は,やっと訴える糸口が見つかったと思い,解決できるのではないかと希 望を感じました。

10 日本の弁護士との面談

(1)そして年が明けた1996年1月下旬,いよいよ北京で日本の弁護士と会うことになったのです。
北京に行くときは,複雑な気持ちでした。
一面では,早く日本人の弁護士に会って,自分の受けた被害を話して恨みを晴らしてもらいたいと思っていました。
けれど同時に,本当に日本人が自分たちの力になって,裁判を本気でやってくれるのかという不安もありました。私はそれまでずっと,すべての日本人を恨んで きました。教育を受けて日本人を憎むべきでないとは思いましたが,やはり日本人を本当に信用することができず,心の底には不安があったのです。
こうした期待と不安の入り交じった,複雑な気持ちでした。

(2)このようにして,1996年1月に北京で初めて日本の弁護士に会ったのです。私の被害について聞き取りをしてくれたのは1月27日のことでした。
そして,1996年8月14日にようやく提訴にまで漕ぎつけたのです。
以上が,私が裁判を起こすまでの経緯です。

11 最後に

(1)ここまで苦労と努力を重ねて,私はやっと裁判を起こすことができました。
それなのに日本政府は,「裁判を起こすのが遅すぎた」から権利がないと主張していると言うのです。このような主張を,私が納得できるはずがありません。

(2)こうした主張に対して,私は以下のように考えます。
まず第一に,日本政府は中国を侵略してたくさんの人を殺し,多大な財産的損害を与えました。このような戦争犯罪行為には,時効などないというべきです。どうして時効なんてことが主張できるのでしょうか。
また,日本の国内では時効を主張できても,国が違えば様々な困難な事情が生じます。遠いし言葉も通じないし,国交がなかったり経済的な格差,法律や政治の 違いなどたくさんの事情があります。一国の国内の法律を,違う国に起こったことに適用するのはおかしいと思います。
次に,中国は1972年の日中共同声明で,国としての損害賠償請求を放棄しました。ところが日本は理屈を付けて責任逃ればかりしています。これは卑怯なやり方であり,日本は勇気を持って責任を認めるべきだと思います。
さらに,この問題を日本が解決することは日本自身のためだと思います。日本は国連安全保障理事会常任理事国に入りたいとか,アジアと仲良くしたいとか言っ ていますが,本当にそれを望むなら,まずは侵略戦争の責任を精算することが必要だと思います。それが日本の名誉にもなると思っています。

(3)以上のように,日本が平頂山事件の責任を逃れることはもはやできません。
私たち家族8人と平頂山の3000人の同胞たちのためにも,裁判所が法の精神に基づき公正な判決を下されますよう願っています。

以上

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