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【遺棄毒ガス事件チチハル訴訟】王春林意見陳述書

平成19年(ワ)第1441号 損害賠償請求事件
原告  王 春林 外47名
被告  日本国

原告 意見陳述書

平成19年12月3日
東京地方裁判所 民事第13部 御中

陳述人 王春林 

1 この事故に遭うまでの私の生活について。
(1)貧しい農村での誕生
私は、この事件の原告の一人である、王春林といいます。
1978年4月30日に、チチハル市の市街地からさらに離れた老莱鎮という、貧しい農村で生まれました。下に妹が一人います。
私は、小さいころから内向的な性格で、学校でも家族の中でも、あまりしゃべるほうではありませんでした。そんな私に、父と母は、深い愛情を注ぎ、幼いころから優しく接してくれました。

(2)厳しい軍隊生活
私は、15歳で中学校を卒業して、農家の手伝いをしたあと、1996年12月からの3年間、人民解放軍に入りました。軍隊生活は大変厳しいものでした。
軍隊では、朝早く起床して、体を動かします。その後、午前と午後にそれぞれまた訓練を行いました。私は、砲兵としての訓練を受けていましたが、いつもひとつ40キロ以上もの重さの兵器を運んだりして、同じ作業を何十回も繰り返しやっていました。それ以外にも、体力づくりのための非常に厳しい訓練が、毎日のように行われました。
この当時は、私は、体力も食欲もあり、体重は70キロもあり、2000年の1月に再び村に戻ったときには、強くたくましくなっていました。
そして、私は、2000年の4月に同じ村の女性と結婚をしました。

2 第1現場で働くことになった経緯
(1)出稼ぎ労働者の取りまとめ役となった
私は、軍隊から戻った後、軍隊時代の友人を訪ねてチチハル市街地に遊びに行きました。そのときに、建築業をしている人を紹介され、その人から、建築現場の作業員として、何人か人を連れてきてもらえないかとの話をもらったのです。
そこで、私は、2001年の春に、親戚や友人20人あまりの村の中の者たちをつれて、チチハル市へと出稼ぎに行きました。
私は、連れて行った20人が、問題なく現場で働いているかどうかを確認する監督役でした。そのため、私は現場で働く必要はなかったのですが、20人のローテーションの調整などをしないといけないし、現場で現場監督からの指示を伝えることも私の仕事でした。そのために、昼も夜も仕事で、あいまをみつけて寝ていました。
   2001年から2003年まで6箇所のチチハル市街の現場を担当しましたが、そのほとんどが北彊花園団地でした。その中で、今回ドラム缶が発見された地下駐車場の工事も担当したのです。

(2)娘の誕生
チチハル市に出稼ぎで働くようになってから、妻との間に娘が生まれました。
このときは、本当に嬉しい気持ちでした。しかし、父親になったという実感がなかなか湧かず、赤ちゃんにどう接したらよいのか戸惑いました。触ったら、壊れてしまいそうで、こわごわと触れていたことを思い出します。
娘が生まれてからは、私も、仕事の合間をみつけては頻繁に日帰りで村へ帰るようになりました。

3 本件事故のこと
2003年8月4日、私は、人手が足りないということで、午前4時頃から現場に入って、仲間たちと地下駐車場として掘った穴の崩落を防ぐため、土嚢に土をつめて積み上げる作業をしていました。
    私たちは、ショベルカーの掘り出す土が、軟らかくて一番つめやすかったので、ショベルカーのそばで作業をしていました。そして、この日の早朝、ショベルカーが複数のドラム缶を掘り出したのです。
1つのドラム缶から毒ガス液が噴き出して、すごく刺激的な、からしのようなひどい臭いがしました。しかし、一体それが何なのか誰にも分からず、最初のうちは、関心を持っていた作業員も、徐々に自分の持ち場に戻っていきました。そして、私たちの仲間は、この日の夕方まで土嚢を作る作業を続けました。
 私は、この日の夜から、目の様子がおかしくなってきたのですが、疲れているのだろうと思って、宿舎で休みました。

4 203病院での治療
翌朝(8月5日)、私が現場へ行くと、仲間たちはみんな、目などに痛みを訴えていました。高占儀などは、腕に水疱もできていました。
そうこうしているうちに、みんな203病院へ行くようにとの指示が出て、私は仲間と一緒に203病院へ行きました。
しかし、病院では、「ベッドがいっぱいなので、まず症状の重い人から診る」とのことで、何人かの仲間は入院できましたが、私は、入院させてもらえませんでした。入院できなかった仲間の一部は、村へ戻ってしまいました。しかし、私は、連れてきた仲間が残っているかぎりは、村へ先に帰ることなどできませんでした。そして、私は、仲間たちの面倒を見るために、毎日病院に行きました。私自身は、仕方なく、203病院で処方された目薬などを使って過ごしていましたが、まったく回復せず、症状が悪くなる一方だったので、8月10日に入院することができました。
私は、家族には心配をかけたくなかったので、毒ガス被害に遭ったことを話すことができませんでした。入院したことについても、「ちょっとしたことで入院した」とだけ説明していました。
入院中も、誰かに見舞いに来てもらいたいという思いはありましたが、感染するとの噂もあって、家族を呼ぶことはしませんでした。

5 退院後の村での生活と妻との離婚
 私は、みんなと一緒に11月15日に退院しました。このときも、状態が良くなったとはとても思えませんでしたが、病院の方針でみんな一緒に退院させられました。
 私は、退院後、村に戻りました。そして、このとき初めて、父と母に毒ガス被害に遭ったことを話しました。親からは、なぜすぐに話さなかったのかと責められましたが、心配を掛けないため、私は「もう治った」と言いました。
妻は、毒ガス被害が感染することを極度に心配し、私との同居生活を拒むようになりました。
そして、2004年の旧正月の後、妻は、私に、「うつるから、一緒に生活することはできない。子どもにも危険じゃないか」と、離婚話を持ちかけたのです。
このときの私は、ただでさえ、この毒ガス被害に遭ったために、健康や仕事、生きがいを失い、一番苦しんでいました。私が一番苦しんでいるときに、信じていた妻から離婚を切り出されたことは、本当に悲しいことでした。私は、この事故に遭う前は、一生懸命働き、妻と娘の幸せのために努力してきました。それを思うと、妻からの申し出を受け入れることは到底できず、私は、離婚を拒み続けました。
しかし、ある日、妻から、「子どもの幸せのためにも、私たちは別れたほうがいい」と言われ、自分と一緒にいることが子どもにとってよくないことであるならば、と離婚を承諾しました。
そして、私は、家の中にある妻との思い出の品を全部探し出して、夜中まで何時間もかかって全部燃やしたのです。

6 仕事ができない無為な生活
私は、親から仕事をしなさいと何度もいわれましたが、体力を使う農家の仕事はできず、工場の守衛などの仕事が見つかったときに、時々働くことしかできませんでした。精神的にも肉体的にも、本当に辛く、家にこもって、悩みばかりが募りました。
 2006年の秋ころ、また、チチハル市街の建築現場で働く仲間を探して連れて行く仕事をもらうことができました。しかし、仕事をはじめてすぐに、自分が昔のように徹夜をすることができないことがわかりました。少し無理をすると、目が痛くなり、全身も疲れ、翌日疲れが非常に溜まってしまいました。もう続けられない、体力的に限界だと何度も思いましたが、引き受けた以上は完成まで責任を持たないといけないと思い、無理をして、完成まで仕事を続けましたが、その後は、働いていません。
私の体力は、軍隊にいたころとは比べ物にならないほどに低下し、人が多いところに行けば息苦しくなってしまいます。階段も数段上ったら、休憩しなければなりません。そして、私は現在5階に住んでいるので、途中で2、3回休憩をしなければなりません。70キロあった体重も、今は57キロほどしかありません。
風邪を頻繁に引きますし、いちど風邪をひくと何日も寝込んで、点滴を打ち続けないといけないので、1回かぜをひくと1000元くらいの治療費がかかります。何とか医療費を節約しようと努力していますが、それでも医療費はかさむ一方です。
そのほかにも、目の痛みや、胸が息苦しい感じがあり、頭痛や吐き気もあります。陰嚢や尻などは、悪天候の時に痛みや痒みがでます。
政府からの給付金は、生活費や医療費などで、もう無くなりました。

7 最愛の母との死別
去年、チチハル市に出稼ぎに来ていたころ、突然、父から電話がありました。母が病気だとのことでした。父は、よほどの時でないと私に電話をしてこない人でした。だから、私は、大急ぎでタクシーに乗り込み、村へ戻ったのです。しかし、それでも母親を看取ることはできませんでした。
以前、母の髪は真っ黒でした。しかし、私がこの事故に遭った後、母の髪はみるみるうちに白くなっていきました。私の将来をいつも気に病んでいましたし、私や私の子どもの世話のことで大変な苦労をかけていました。
母はまだ51歳でした。あの事故さえなければ、私が健康だったならば、こんなに早く逝くはずはなかったのです。
私は、母に、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。母が、いつものように、私のことを心配しながら逝ったのだと思うと、涙が出ます。

8 最後に
日本の裁判官には、どうか私のこれまでの苦しみと不安ばかりの日々を理解してもらいたいと思います。私は、人生を奪われ、家庭を壊されました。私の子どもは、もう自分に会っても、父親としての親しみを持ってはくれないでしょう。それを思うと本当に心が痛むのです。
日本政府には、まず私たちのように毒ガスの被害を受けたすべての中国人に対して、速やかに医療と生活を補償してほしいと思います。そして同じような事故を、もう二度と起こさないと誓って欲しいと思います。これは中国人の毒ガス被害者全員の要求です。
以上

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