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3/10チチハル遺棄化学兵器裁判がありました。

昨日3月10日午後4時から、チチハル遺棄化学兵器裁判の、第4回口頭弁論が、東京地裁103号法廷で行われました。

今日の法廷の内容は、被告国に対する責任論と、原告牛海英さんによる意見陳述でした。

牛海英さんの陳述の内容を、要点のみお伝えします。

 私(=牛海英)は1978年2月チチハル市内に生まれました。私が生まれたころ、家族の暮らしは貧しく、私の母親は、私が幼いころから家族のために働き始めました。
 母親は、私が8歳の時に廃品回収所の経営を始め、私は2001年に私が経営者の立場を引き継ぎました。
 1995年に結婚し、96年には男の子が生まれました。私は毎日朝6時から夜10時くらいまで仕事をし、従業員が帰宅した後は自分でも運搬をしました。そうして一生懸命働いたので、収入は充分にありました。経費や生活費などを除いても、年に6~7万元(日本円で約100万円)の利益がありました。
 2003年8月4日、午前9時ごろ、私の経営する廃品回収所に、李貴診さんが、ドラム缶5個を持ってきました。李貴診さんは、私の店の前の空き地でドラム缶を解体する作業を始めました。解体した瞬間、液体と気体が同時に吹き出し、ドラム缶からかなり刺激の強い臭いが噴出し、みるみるうちに鼻、胸、肺それから頭のてっぺんまで十万して、まるで、からしを食べたようでした。私はしめったタオルでずっと鼻をおさえていました。彼はまた解体作業を続けていました。4つの缶の中には、液体がはいっていたので、隣人の王成さんが手伝って、液体をひしゃくで洗面器にくみだし、全面の路の溝に捨てていました。
 お昼に食事を届けてくれたお手伝いさんが私を見て、まるでお酒を飲んだように顔全体から胸にかけて真っ赤になっていると言われました。目が充血し、のどがひどくただれて、自分は熱中症だと思いました。のどが非常に渇くので、水をいくら飲んでものどの渇きをいやすことはできませんでした。
 当日の午後1時ころドラム缶解体を終えたので、私はこれを買いました。その後、李貴診さんの症状はかなり重いようで、みているとよろけながら去っていきました。ドラム缶から発散される臭いがとても我慢できなかったので、急いで300元で転売人の梁波さんにドラム缶を売りました。
 夕方になると、顔と首がさらに赤く腫れ上がり、目の痛みもよりひどくなり、頭ももうろうとしてきました。仕事が忙しくて、かまっていられませんでした。その日の夜、李貴診さんの奥さんが私のところに来て、夫の具合が悪くなり、病院に行ったところ「中毒」と診断されて、あなたもすぐ行った方が良いと言われて、私もすぐに病院に行きました。病院に着くと、王成さんと李貴診さんがベッドの上で吐いたり、涙を流したりして苦しんでいました。私たちは中毒と診断されましたが、何の毒に当たったかは言われなくて、とにかく私たちに急いで203病院へ転院するように言われました。
 入院中は、あまりの激痛に苦しみ続けました。そして、病院でようやく鏡を見ることができた時、私の顔は醜く腫れ上がり、おなかには大きなびらんびらんの傷跡が残っていました。その様子をみて、私は自分が化け物になったと思い、愕然としました。あまりの現実に、窓から飛び降りたいと何度も口にしました。けれど、そのたびに、母親は私にむかって、「あなたが死ぬのはかまわない。けれど覚えておいて。お母さんは、あなたが死んだ日に必ずあとを追うから」と言いました。母は口にしたことは必ず守ると私はおもっていました。
 3ケ月以上のち、ようやく退院することができましたが、以前の自分とはまったく変わってしまっていることを思い知らされました。毎日がつらくて、どんな仕事もまったくやる気がなくなって、何も出来ないのです。希望がもてない日々の中で、すべてに対し、投げやりな気分になり、家庭の中でいらつき、おこりっぽくなくなっていきました。
 相性のよかったはずの夫婦仲も悪くなっていきました。ある日、夫が風邪をこじらせてなかなか治らなかった時に、突然「おまえの毒ガスがうつったせいではないか」と言われました。とてもショックでした。家の中は疑心暗鬼に満ちてしまいました。このような毎日が一年以上続き、夫から「このような状況だったら、別かれた方がいいのではないか」と別れを切り出されました。私は離婚をしたくありませんでしたが、子どもの将来を思うと、自分母親としてふさわしくないと思い、離婚に応ずる決意をしました。しかし、離婚をする時にも、子どもの生活や環境を考え、私が買ったマンションは夫に譲り、離婚しました。
 私は、子どものために、さらに10万元(約160万円)を夫に渡して、2005年10月に、一人で家を出ました。身の回りのものだけを車の中に投げ込んで、その夜は団地の駐車場で明かしました。母や姉妹には迷惑をかけることはできず、車中で3日3晩を明かしました。寒さの厳しい時期でした。朝日とともに目が覚めたら、車を出してあちこち走り回りました。顔を洗うところさえもなく、3日間、ひたすら走りながら、子どもに寂しい思いをさせ続けたことを悔やみ、夫との幸せだった日々を思い出しました。自分の将来は何も見えず、湖の周りをぐるぐる回りながら、死ぬことばかりを考えました。しかし、入院中に母が言った、私が死ねば、母も後を追うという言葉を思い出すと、私には死を選ぶことはできませんでした。
 そして、11月に、年齢に関係なく入居できる介護施設に入居しました。当時の私は「寂しい」という気持ちも失っていました。そんな私を見かねた親戚が、ある男性を紹介するといいました。私はとても受け入れられない心境でしたが、母と姉が無理やり私を連れ出し、その男性と引き合わせました。自暴自棄になっていた私は、自分のすべてをその男性にぶちまけました。中毒被害者であり、健康ばかりか性格も悪くなっていること、将来に対しまったく希望を持てずにいること。しかし、その人は「全部わかっているから心配ないよ」と言ってくれたのです。
 この日をきっかけに、彼と数回会うようになりました。彼とのふれあいが少しずつ私を変えていきました。そして、彼との交際を始めたことをきっかけに、施設にいる生活は良くないと考え直し、2006年2月下旬に施設を出ました。
 2006年5月ごろ、彼にプロポーズをされ、7月にようやく結婚の届けを出すことができました。その年の8月、子どもができたことに気がつきました。妊娠に気づいた時は、喜びよりも不安が募るばかりでした。被害を受けた後の私の体はあきらかにおかしく、無事に子どもを産む自信がありませんでした。夫は私の妊娠を喜んでくれましたが、生まれてくる子どもが五体満足なのか、健康な子どもが生まれるのか、私の心は不安でいっぱいでした。しかし、夫が「どんな子どもが生まれてこようと、私たちの子どもに違いない」励ましてくれたので、私は子どもを産む決意をしました。妊娠中もつらい日々でした。私は体調がいつも悪くて、よく風邪をひいて、16日間も寝込みました。夫の励ましをうけながら、体調の不調に耐えました。そして2007年2月13日に無事、男の子が生まれました。
 しかし、私はもう外で働くことはできません。それどころか毎日、何種類もの薬を飲み、体が動かないために家事もほとんど夫に頼る毎日です。経済的な不安も大きいものです。夫は家族のために毎日夜遅くまで働いてくれますが、家計は決して楽ではありません。私がこのような体なので、昔のように一緒に家計を支えることもできません。とても申し訳なく思っていました。子どものこれからの長い将来を思うとも不安は募るばかりです。
 以上ありのまま事実を述べました。裁判所に賢明な判断をお願いします。他人のあわれみを求めるのではありません。正義と道理を求めるものです。

最後に、 日本国と裁判所にお願いがあります。
第一 中国の大地に遺棄した毒ガス弾、毒ガス入りドラム缶を一つ残らず撤去し、私たちの同胞、兄弟姉妹、さらに子々孫々に被害を蒙ることがないようにしてください。
第二 私たち被害者は日本政府に真摯な謝罪を求めます。
第三 私たち被害者は日本政府にこれからの生活支援と医療の補償を求めます。

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以上、牛さんの陳述の概要をお伝えしました。
詳細はチチハル支援会ウェブサイトや、支える会会報に掲載する予定です。

なお、次回弁論は、6月23日午後4時からになります

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