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5・遺棄毒ガス事件・・・李臣さんの被害

1974年10月20日午前2時ごろ、黒竜江省佳木斯市内を流れる松花江で黒竜江航道局の作業員が紅旗09号という吸引式浚渫船で泥をさらう作業をしていたところ、佳木斯市記念塔から上流200mの地点で吸泥ポンプからカンカンという大きな音がして紅旗09号のメインエンジンが異常停止しました。

船の上で機械の管理をしていた李臣さんたちがポンプの修理にかけつけ、手動リフトでポンプのふたをあけると、ポンプの中から水があふれだしました。その水は黒色でマスタードのような臭いがしました。李臣さんはこの黒色の水に漬かったりリフトのチェーンを手で掴んで蓋を引き上げたため、体全体に黒色の液体をあびてしまいました。李臣さんが黒い水が充満したポンプ内に手をいれ、中から金属製のものをとりだしました。それは直径約10cm、長さ50cmの砲弾でした。砲弾はすでにさびていて頭部がつぶれて中から黒い液体が流れ出していました。

この液体の正体は23日に防疫センターの検査でイペリット(マスタードガス)とルイサイトの混合物であることがわかりました。

李臣さんはこの時29歳でした。砲弾を発見した後の午前3時ごろから、めまい・吐き気・頭痛・呼吸困難・口の渇き・流涙・鼻水などの症状がでてきました。黄色い液体を嘔吐し、手がかゆくなって、体の力がぬけてしまいました。佳木斯市の病院で手当てをうけましたが、病名はわかりませんでした。その間に両手は赤くはれあがり、水疱ができてきました。翌21日、ハルピン医科大学病院に入院しました。入院時には両手の水疱はぶどうの房のようになり、頭の上にも鳥の卵大の大きな水疱ができて。水疱からは黄色い液体が流れていました。24日には瀋陽の202病院に転院し、マスタードガス中毒症と診断されました。水疱は全身に広がっていました。治療はびらんした部分を切り取って消毒するという方法がとられました。しかし皮膚がただれると指と指の間には水かき状の膜ができて癒着するようになってしまいました。12月10日に一旦退院します。退院後2ケ月もしないうちに再び病状が悪化して、両手だけでなく、陰部・肛門・口腔にも水疱ができて、びらんし、呼吸も困難になりました。1975年12月17日、北京の307病院に入院し、指と指の間にできる異常膜を切り取る手術もうけました。1976年4月6日に退院しましたが、また再発し、1977年6月9日から7月21日まで入院しました。その後もずっと局部の水疱、びらん、筋肉の萎縮による両手の機能障害、石けんなどの化学物質に対するアレルギー、頭髪脱落、呼吸困難などの症状があり、通院を続けています。1997年4月にはハルピン市障害者連合会から肢体障害3級という認定をうけました。李臣さんは1968年から黒竜江省航道局に勤務し、事故当時毎月基本給50.7元、水上作業手当て37.2元、賞与30元など合計月118.48元の給与が支給されていましたが、病気休養のため基本給のみの支給になってしまいました。95年以降は手当てがつくようになり、1999年に定年前の退職をしました。退職後も退職前の95%の月1038.65元が支給されていますが、被害にあわなかったとすれば現在は2229.7元の支給が受けられていました。治療費は、病院費用の7割が航道局が負担していますが、病院以外で買う薬などを含め自己負担になっています。李臣さんは治療法のない病気の苦しみや家族も養えないという屈辱感から精神不安定になり、2回自殺を試みたこともあります。生活は困窮し、現在も2万8000元の借金が残っています。

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