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2・731部隊事件で・・・敬蘭芝さんの被害

敬さんは1922年黒竜江省望奎県で生まれました。敬さんは17歳で朱之盈と結婚しました。朱之盈は1914年生まれで夫婦仲は良く、家計は朱の給料で支えていました。

1941年7月17日、朱之盈は朝仕事にでかけたまま午後5時すぎになっても帰ってきませんでした。午後7時ごろ5人の日本憲兵が敬さんの家にやってきました。憲兵はそこが朱之盈の家だと確認すると、敬さんを壁におしつけ、蹴った上、ジープで牡丹江憲兵隊本部まで連行しました。2人の憲兵と通訳が朱之盈の仕事を尋ね、敬さんが「昼間仕事に出て、帰ってからはどこにも行かない」と答えると、憲兵が敬さんを殴ったり蹴ったりしました。敬さんは服をはぎ取られました。憲兵は革のベルトで裸の敬さんを打ち付けながら尋問を続けました。血まみれになり、ほとんど気を失いかけた敬さんを憲兵はその部屋から引きずり出し、建物の隣の小さな小屋に放り込みました。

翌日午前8時ごろ、敬さんが尋問室に連れていかれると、そこに手錠と足かせをはめられ、服はボロボロで顔に血の跡がある朱之盈がいました。憲兵は朱之盈の前で敬さんを何回も殴り蹴り、鞭で打ちました。苦痛のあまり気を失った敬さんが気がつくと朱之盈は涙を浮かべながら「彼女を殴るな。彼女は主婦で何も知らない」等と言っていました。

憲兵たちは、鞭を振り回して朱之盈を打ち始め、気を失うと冷たい酸いも甘いも噛み分けるあびせかけ、意識をさまさせ、さらに暴行を加えていました。敬さんは朱之盈に駆け寄ろうとすると、2人の憲兵が敬さんを小屋に連れ戻しました。この拷問は1時間ぐらい続きました。4日目の夜、また敬さんは引っ張り出され、いろいろ問いつめられ憲兵の一人がこん棒で敬さんの腹などを打とうとしました。敬さんは左手でそのこん棒をさけようとしたため、左手首を骨折してしまいました。その後2人の憲兵が敬さんを別の部屋に引きずっていきました。そこには十字の木にしばられ、首がだらりと垂れ下がり、皮膚が破れ、肉が裂け、血だらけになった朱之盈がいました。敬さんは朱之盈にすがり、名前を呼びました。朱が気がつくと、憲兵はまたはげしく朱を打ちつけました。敬さんはそこから引き離されました。これが敬さんが朱之盈をみた最後となりました。5日目、敬さんは手首がはれあがり、激痛に苦しみました。7日目、敬さんは釈放されました。

朱之盈は、牡丹江の憲兵隊本部からハルピンの憲兵隊に移された後「特移扱ニ関スル件通牒」に従って憲兵により731部隊に送られました。敬さんは自らが釈放された後ずっと朱之盈の消息を探し、夫が帰るのを待っていました。1950年に朱之盈が日本軍に殺されたとの手紙をもらいましたが詳しいことはわかりませんでした。1986年敬さんは侵華日軍「731部隊」罪証陳列館元館長の韓暁から、朱之盈が731部隊で殺害されたことを知らされました。

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