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強制労働の記憶一歴史的実状とフォルクスワーゲン社における記憶をめぐる企業文化

(2002年10月9日)

2002年10月19日に東京虎ノ門の発明会館において『いまこそ問う-過去の克服』と題して講演とパネルディスカッションの集いが開催されました。パネ リストとしてドイツのフォルクスワーゲ社の文書館館長マンフレート・グリイガー氏は以下のような注目すべき話をしました。

ご来場の皆様。
本日は、皆さまにお話しする機会を与えられ、また同時に皆さまとともに話し合う場を設けていただきありがとうございます。こうした問題をめぐる日本の議論 を知ることができますことを光栄に存じます。私のほうは、ナチの戦時経済における強制労働の基本構造を説明し、2001年夏に連邦法によって創設された 「記憶・責任・未来に関する連邦財団」にいたるまでの補償問題をめぐる議論をご紹介することで、ドイツとヨーロッパの実状をご説明したいと思います。さら にまた、フォルクスワーゲン社の記憶保存の企業文化を例としてお話ししたいと思いますが、これは強制労働の現場に結びついた記憶の保存形態すなわち記憶の 次元と、金銭的補償措置とを同時に扱おうとするものです。そのさい、私は歴史学の博士としての立場からお話しさせていただきます。フォルクスワーゲン社の 資料館に勤務しており、毎日そこでこの問題と取り組んでおります。

ただ私は日本語を解しませんので、この講演はドイツ語でさせていただきます。講演の原稿の訳はお手元にお配りしてあります。この後のディスカ・ションの場においては、言葉の壁を克服するために上田さんに通訳していただくようお願いしてあります。

フォルクスワーゲン社は、西ドイツの「経済奇跡」のシンボルとして、ドイツ連邦共和国の戦後史を担う中心的な役割を果してきました。また、かつての強制労 働に関する記憶保存の面でも、フォルクスワーゲン社はドイツ企業の代表的存在でありこれを推進する、他に例のない原動力となってきました。フォルクスワー ゲンの例は、あたかも凸レンズのように、ドイツにおけるこの問題の議論の中心課題を集約したものと言えます。

Ⅰ.(以下では、訳出するにあたり講演の文体を取らない)
まず最初に、ドイツの戦時経済における強制労働と、その企業レベルにおける歴史についていくつかお話しする。第2次世界大戦中ナチ政権はヨーロッパ規模の 広域経済体制をつくり、ドイツ経済の労働力不足を解消するために、ドイツ占領地域ないしドイツの影響下におかれた国々から1000万人の労働力をかり集め た。むろん、各国の国内においてもドイツ占領軍のために労力提供をさせられた人は多数いるが、ここではドイツの地で働かされた人々に焦点を合わせてお話し したい。

外国人労働者は、ナチの人種的二反ユダヤ的な政策にしたがい、その出身国や法的地位に応じて、市民・戦争捕虜・強制収容所等の囚人というように階層化され て扱われた。この扱いの最低辺に位置したのが、「下等人種」とされたポーランドやソ連からの戦争捕虜、強制収容所の囚人ならびにユダヤ人であった。もちろ ん、時間とともに重点のある階層が移っていったわけであるが,私の話の中では十分に細かい区別をつけることができないことをご承知願いたい。一般的に言っ て、東欧の人々、戦争捕虜、囚人の多くが労働を強制されたと言える。各地で広く行われた強制労働という現象によって、戦時下のドイツ社会、すなわち経済活 動の主体・ナチ組織・国家組織またドイツ国民の大部分は、主として外国人からなるプロレクリ十卜以下の存在によって利益を得ることができたのである。この 強制労働は、ドイツ社会のまっただ中で、いうなれば衆人環視のなかで行われた。強制労働に従事させられた人々は、一一その中には300万人近い女性も含ま れる一大部分が職場の近くの応急の大収容施設かバラックに住まわされた。

強制労働の場は企業の敷地内にあり、フォルクスワーゲン社は典型的な自己完結した小世界を形成していた。軍需発注があることが、強制労働者を割り当てられ るかどうかの前提となっていたために、ドイツの戦時経済に企業が組み込まれることと外国人労働者の獲得には密接な関係があった

1938~39年にドイツ中部のフアラースレーベン近くに建設されたフォルクスワーゲン工場では、フェルディナンド・ポルシェの設計による小型車が大量生 産されることになっていた。この月的のため、ナチ最大の組織「ドイツ労働戦線」は、1937年5月28日にベルリンで「ドイツフォルクスワーゲン有限会社 準備団体」を設立した。しかし、ナチスはポーランドに侵攻し第2次大戦を引き起したため、1939年秋に予定されていた自動車の生産開始は中止となった。 戦時経済の統制構造が動きはじめ、フォルクスワーゲン社の発展に大きな転機が訪れた。フォルクスワーゲン社は軍需企業となり、航空機と軍用車両の生産を行 うこととなった。

他の大企業では正規従業員数が徴兵のために減っていったが、フォルクスワーゲン社の場合には設立当初からドイツ人労働者が従業員の中核となっていたのでは なかった。このため、戦争が始まるとフォルクスワーゲンではつねに外国人労働者を補完的労働者として用い、もっぱら軍需生産のみを行った。1940年夏に はポーランド女性300人を得て、彼女らを差別的に扱い、また人種ごとに労働の序列化を始めたことから、強制労働の新しい形態へと移行することになる。 1941年夏にフォルクスワーゲン工場は、オートメーション機械を扱うためには「欧州の東部や南部の原始的な人間を用いて」、ドイツの「良質な労働力」は 機械の整備・調整を担当させようと考えた。上司や監視役をドイツ人が独占する人種別序列を固定化するプランが、こうしてようやく輪郭を表すにいたる。フォ ルクスワーゲン工場にあって強制労働は難しい労働力確保にたいし一種の恒久的な解決法となったのである。

利益の最大化と企業の拡大という政策のもとで、フォルクスワーゲンは1941年以降は中規模軍需産業にまで成長した。生産物が国家により買い取られる保証 のある軍需生産によって、フォルクスワーゲンは企業として急成長し戦争から利益を得た。売上高で見ると一、1940年には2,600万ライヒスマルクで あったのが、1942年には1億4600万、1944年には2億9000万ライヒスマルクに急増している。利益の面から見ると、1940年には初年度赤字 が1270万あったが、その後戦争の進展にともない2000万ライヒスマルクの名目利益を出している。

こうした発展にともなって、ますます多くの外国人労働者が工場で使われることになるが、彼らの行動の自由・食糧その他供給・報酬に関しては、ナチ国家の人 樹差別規定が適用されていた。ドイツ人従業員やマネージャーの中には、生産が円滑に行われるために、あるいは同情心から、自由裁量のきく範囲で外国人労働 者の生活を助けようとして食糧を追加配分したり条件の良い職場に転勤させるものもいた。とは言え、ソ連の戦争捕虜や「東からの労働者」の運命からも明らか なように、こうしたことがけっして広く行われていたわけではない。

外国人労働者の困窮状況に対して企業側は援助を惜しみ、イタリア人捕虜も例外ではなかった。彼らに対する扱いには、かつての同盟国が降伏したことに対する ナチ政権の報復という面と、ドイツ人労働者のなかに深く根ざしたイタリア人に対するルサンチマンという面が強く出ていた。十分な食糧が与えられていなっ かったため、つねに飢餓状態が支配していた。虐待は、食事の取り上げや、職制の工場監視員による殴打といった罰の形で行われた。

軍需生産は、こうした体制に典型的な拡大とスクラップのダイナミズムを展開させる。1944年には、地下工場の拡大とそこでの生産が、強制収容所の囚人を 使って行われた。職場、ことに建設の現場では、恒常化した差別とあからさまな暴力行為が日常化し、工壇の雰囲気は荒々しいものとなった。早い生産テンポを 要求され、不十分な食事による身体の消耗、不衛生な環境による罹病、監視員やドイツ人職制による虐待などにより、現場で強制収容所の囚人が死亡するケース もあった。これに比べると、地雷や対戦車砲のような直接死亡率が低かった。

フォルクスワーゲン工場は戦争終結にいたるまで、最大限の軍需生産を行い、機械の分散によってこれを維持しようという戦略を続けていた。これと並行して一 種の略奪経済が行われ、のこされた生産能力を最大限に動員しながらも、企業としての一体性を犠牲にし、当時の社会そのものを反映するかのように生産拠点の 細分化を推進した。これらは、多大な消耗と犠牲をはらって行われたもので、その影響をまともに受けたのは大多数の強制労働者と強制収容所の囚人であった。 1944年段階では、18,000人の従業員の3分の2以上が、このグループによってまかなわれていた。こうした労働者にはかなりの移動があったので、第 2次大戦中に当時のフォルクスワーゲン社で強制労働させられた人の数は、少なくとも2万人はいたものと考えられる。

ナチ体制のもとでは、強制労働は労働力の非人間化のプロセスをもたらし、人間の尊厳をおとしめて無生物である生産ファクター同様に扱った。効率性の追求 は、人命を維持し機能するような配慮と、死をもたらすアンビバレントな側面を持っていた。このことは、営利企業であるフォルクスワーゲンにも、公営企業に もあてはまるものであった。

Ⅱ.
強制労働者は、連合軍によって解放されると、ただちに故国に戻ったり外国に移住したため、ドイツ国内から姿を消した。そしてドイツ人の視野からも消えてし まったのである。一連のニュルンベルク裁判では、強制労働者に対する搾取も告発の対象とされたが、西ドイツの補償政策は政治的・宗教的人種的な迫害の問題 に傾いていった。1952年9月10日に締結されたイスラエルとのルクセンブルク協定では、30億マルクにのぼる最初の包括的補償が取り決められ、 1953年に成立した連邦補償法が一定の法的請求権と年金請求権を認めたものの、強制労働者はその対象一にならなかった。そのうえ、1953年2月のロン ドン債務会議では、この複合的な問題は全参加国の同意のもとに、将来締結されるべき平和条約の賠償規定に委ねることとされた。ドイツ連邦共和国の早期の西 側統合を図るために、東欧の人たちの強制労働に対する補償は長い間放置された。ドイツの裁判所はこの間、強制労働に対する民法上の補償請求を却下するのが 常であった。

補償の実態は、数多くの犠牲者グループⅦたとえば冷戦期には共産主義者たちを補償金支払い対象から除外していた。その後、事態改善のために法改正も行われ たが、80年代の甚大な被害に対する規定によってようやく従来考慮されなかったグループ、たとえば強制不妊手術の犠牲者などにも金銭的な補償がなされるよ うになった。さらにまた、損害賠償法の領土原則によって、ユダヤ人を例外として、ほとんどドイツ人のみが給付対象とされてきた。それでも、この原則にもか かわらずナチによる不当行為に対する国家補償は少ないものではなく、総額560億ユーロ以上にのぼっている。ただし補償対象となっているのは、財産・健 康・自由にたいする侵害に限られている。これに対し現行の法解釈では、強制労働は戦争にともなう被害であり、ナチの不当行為とは認められず、強制労働者は 対象外とされている。

60年代には、クルップ、ラインメタル、IGフアルペンなどの各社と、ユダヤ人賠償請求会議(JCC)との問で個別に結ばれ、当該企業で働かされた強制収 容所のユダヤ人に対する金銭的補償が取り決められたが、強制労働そのものは社会の意識するところとはならなかった。また歴史学も、ユダヤ人に対する民族抹 消の問題や政治的な抵抗運動、あるいはナチ独裁の支配構造と集中的に取り組んできたものの、強制労働という広範雑にわたる現象は視野に入れずにきた。いく つかの、むしろこれを弁明するような研究を除くと、強制労働の問題は1985年になってウルリッヒ・ヘルベルトが初めて全体像を発表するまで、史料編纂の 意味での意識にのぼることはなかった。

戦後40年が経ち、戦争当時に活動していた世代が社会の一線から退いてから、こうした動きが生じたのは偶然ではない。当時のリヒャルト・ヴァイツェッカー 連邦大統領が記念演説を行い、社会的な議論の端緒を開いた。その時点までは、企業の社史はもとより企業史研究においても、ナチ時代の強制労働システムに関 する言及は一切なかったのである。抑圧して沈黙を守るのが常であり、長年にわたりタブー視する慣習が続いていた。フォルクスワーゲンも、この点では例外で はなかった。

しかし、1986年にダイムラー・ベンツ社が自動車生誕百年を記念して「1933「1945年の時期のダイムラーベンツ社」という本を出版し議論を呼んだ が、フォルクスワーゲンもポッフムの高名な現代史研究者ハンス・モムゼン教授に社史の調査を委託した。これに先立ち、従業員代表は来るべき会社設立50周 年を前にして、第2次大戦中の軍需生産や強制労働につながる会社設立の経緯を外部の手によって明らかにするよう提案を行っていた。こうして経営側と従業員 側が共同で、会社に関わりのない外部専門家による調査が実施されることとなり、1987年に「アウシュヴィッツ国際昔年交流」の助成と並んで、青年交流措 置が同列の扱いを受けることとなった。それ以来、フォルクスワーゲンの職業訓練生が毎年100人以上この地を訪れポーランドの若者と会合を開き、お互いを 知り合い、またナチの抹殺政策を生き延びた人たちとともに議論し、強制収容所のあったアウシュヴィッツ・ビルケナウで記念碑の維持保存に従事している。こ こでは歴史から学ぶということが、現在と将来の行動のための具体的な指針となっているのである。

ポッツム大学の研究者グループの調査結果第1郡が発表されたのを受けて、1991年フォルクスワーゲン社の敷地内に記念碑が建てられた。同時にフォルクス ワーゲン社は、かつての強制労働者の出身地あるいは現住地における人道的プロジェクトに対し、総額1200万マルクの助成金を支出して援助を行うと発表し た。同時にフォルクスワーゲン社はこれによって、体制変革後の東欧で声高に叫ばれる個人に対する補償請求を拒否したことにもなる。今日一般に認められてい る議論のとおり、強制労働は国家によって行われたものであり、補償が行われるとすれば国家がそれを行うべきである。プロジェクトに対する人道的な援助形態 は、明らかになっている限りの歴史的知識に照らして、現時点では企業として適切な結論であるとされた。しかし、この点においても数多いドイツ企業のなか で、フォルクスワーゲン社のやり方は他に例を見ない。

さらにナチ時代のフォルクスワーゲンの歴史との学術的な取り組みは、1996年に「フォルクスワーゲン社と第三帝国におけるその従業員」という大部の本に 結実し、その後1997年に資料館が設立された。これによって、専門的な文書・情報マネージメントが行われ、歴史的テーマを社の内外とのコミュニケーショ ンに取り入れることが可能となった。フォルクスワーゲン資料館の任務は、主として「歴史メモ」というシリーズの出版にある。たとえばかつてのフランス人強 制労働者の当時の日記の刊行がある。これに引き続きオランダ人とポーランド人の回想録を出版する予定である。また資料館は、フォルクスワーゲン社の「人道 的援助基金」の運営を行っており、またかつての強制労働者とのコンタクトの仕事もあり、彼らがヴォルフスブルクにあるフォルクスワーゲン社を訪れる際の援 助も行っている。「記憶保存資料館」は、生存者の証言や、写真・日記・手紙、サジ・衣類などの現存する証拠物件を借り受けて保存している。

新設の資料館の最初の活動は、フォルクスワーゲン社の職業訓練生25名の手を借りて、1995年に初めて行った展示に手を加え規模を拡張して、かつての防 空壕内に常設化したことである。1999年12月には、敷地内に「フォルクスワーゲン社における強制労働記念の地」をつくり、コンセプトの面でも、工場と 本物の防空壕のただ中に強制労働との取り組む姿勢を視覚的に示した。防空壕は、勤務中の外国人労働者を空襲から守るものであり、また閉じ込めておくもので もあった。身の安全の追求と自由剥奪というアンビバレントな経験や、実際の被害者たちの広範な経験は、ここに展示されたものを通じて示される多様な認識の 中に表されている。

歴史的な状況の再現によって訪問者を過去の世界に送り込むのではなく、この地で行われた人権侵害を現在の市民の自由な目で見てもらうことが目的である。材 料や空間構成の選択にあたっては、当時の工場に典型的な特徴を重視した。空間と展示のレイアウト、当時の文書・写真・展示物・説明文・証言などを組み合わ せて、様々な対象者グループのおかれた状況に焦点を当て、同時に各人の受けとめ方や判断も分かるようにしてある。説明文はジャーナリズム報道の文体で控え めな表現を用いて、距離を持った感情移入を目指している。これこそが、後世に生まれたものの適切な態度であり、とりわけ企業の取るべき態度であると考えて よかろう。

ドイツ企業で、このような「記念の地」をもつものは他にない。ここには合計6つの展示室が設けられており、前もって資料館にて連絡をとれば誰にでも公開さ れている。年間に3000人以上の訪問者があり、職業訓練生グループや学校生徒も多い。すべての展示物と説明文を載せたカタログは、英語版とドイツ語版を 用意してある。

フォルクスワーゲン社は、この「記念の地」によって強制労働の被害者に敬意を表すものである。この施設は、推定2万人の人びとが強制労働に従事した場所に つくられている。歴史的な強制労働の場と結びついた具体的な記憶の形態によって、歴史的な現象を様変わりした現代において提示することが可能となってい る。強制労働の被害者たちの記憶によって、強制労働をすでに完結した過去と見るべきではなく、現在にまで及ぶものであることが明らかにされている。強制労 働は広く行われた現象であったが、当然ながら個人の体験というレベルもある。被害者たちに対し、当時の生活状況が彼ら自身の知覚とその歴史意識に刻み込ま れていることを示そうとするなら、社会と企業の記憶保存の形態はこうした個人のレベルを考慮すべきであろう。身をもって強制労働を体験した人びととコンタ クトをもつうちに思い知らされたのだが、彼らの多くにとって大事なことは、当時苦しめられた場所で、今はまったく異なる条件の下に働く人びとに語りかける なにものかが保存されることなのだ。何百万もいた強制労働の最後の証人が亡くなったあと、この歴史的な犯罪行為が風化してしまうのではないかと心配してい るのだ。この常設展示と「記憶保存資料館」は、彼らに対する企業側の永続的な記憶保存のシンボルとなっている。高齢となったかつての被害者が、自分の若い 日に刻印を押した工場を訪れるとき、かって

は差別と屈辱を受けた場所で、いまや同等な人間として敬意を受け、聞く耳を見いだすのでなければならない。

フォルクスワーゲン社は、過去に関する知識から得た結論に基づき、1998年7月にかつてのフォルクスワーゲン社で強制労働させられた人びとに対する人道 的な援助を約束した。かつての強制労働に対する補償をめぐって世界的に議論が頂点に達し、アメリカの裁判所に提訴する動きが出てきた。法的な観点からすれ ば、アメリカの法廷に裁判権があるかに関しては疑義があり、また賠償請求があるとすればそれはドイツ国家の問題であり、さらに時効が成立しているため訴訟 に見通しはなかったのであるが、それにもかかわらずフォルクスワーゲン社は道徳的な責任を問われていると感じて、ドイツ連邦共和国の賠償とは別に被害者の 生活設計に貢献を行うこととした。1998年9月には、フォルクスワーゲン社監査役会はさしあたり2千万マルクを人道的援助基金に支出すると決定したが、 この基金によって賃金の未払い分や被害者の人権に対する侵害の補償とはしないこととした。また、シモン・ペレス、フラニッキー、ヴァイツェッカー氏の入っ ている管財委員会は、高齢の被害者にたいし迅速な援助を行うために、かつてのフォルクスワーゲン工場で強制労働をさせられたという証明が可能な人すべてに 一律1万マルクの一時金を支払うこととした。

フォルクスワーゲンは、この給付は金銭によって当時の強制労働に対する遺憾の意を表するものであるとして、強制労働の期間や、迫害があったかどうか、ある いはどのグループに入っていたのかとは無関係に支払ったのである。また人道的援助基金のおかげでフォルクスワーゲン社は、その後に出てきた法的な問題に左 右されることなく、個々の被害者に援助を行うことが可能となった。今までに26か国2,130人以上にたいして援助が行われている。

この包摂的な人道的援助基金は、できる限りすべてのグループを対象としており、こうした基金は当初フォルクスワーゲンだけがもっていた。しかし、当時社会 民主党の首相候補だったゲルハルト・シュレーダーは、ニーダーザクセン州首相として監査役会の一員としてこうした議論を熟知しており、選挙に勝利した場合 はこの未解決な問題の政治的解決に取り組むと約束していた。こうして1998年秋の連立政権の政策協定に、連邦政府による財団設立が盛り込まれたのであ る。むろん当面その細部に関しての合意が成立していたわけではなかった。覚えておられると思うが、1999年の年末から2000年にかけて、政治と法律上 の全面的な論争が起きている。

フォルクスワーゲン社は、社会的責任という意味において、また十分な法的保証を確保することも視野に入れて、1999年2月のドイツ経済界財団設立イニシ アチブに参加した。これは現在の「記憶・責任・未来に関する連邦財団」に先行するものであった。国と経済界は、国際的な各種の被害者団体や、イスラエル・ アメリカ・ウクライナなどとの顔難な交渉を続けたのち、2001年8月に財団の設立費用100倍マルクを折半した。これは金銭という象徴を通して、ヨー ロッパ諸国からかり集められた数百万人の強制労働が歴史的な人権侵害であったことをドイツの社会と経済界が認めたことを示すものであった。支払いは始まっ ているが、実行面での困難と政治的な論争はこれからも続くものと思われる。

こうした措置が十分であるとは思わない人もいる。しかし、被害者たちの多くが亡くなっているという事実は、ドイツの戦後社会一国民・政界・経済奇跡で栄え た経済-が、外国からの数百万もの強制労働者をナチ犯罪のリストから外したここで、この問題を等閑視してもはや取り返しつかなくしてしまったことを意味す る。今日になって何が行われようとも、かつての強制労働者の大部分にとってはすべて手遅れである。これが避けがたく苦い真実である。ドイツ産業界の中で フォレクスワーゲンは、何年にもわたって記憶保存の企業文化をもってきた唯一の企業であり、その活動を通じて戦争と強制労働をヨーロッパの歴史意識にのぼ らせたという現代の課題に、中央政府とは別に貢献してきた。

1985年に当時のヴァイツェッカー大統領は、記憶とは「ある出来事に誠実かつ純粋に思いをはせて、それを自分自身の一部とすること」と語った。これによ り、ドイツの社会と国民は自分自身の誠実さが求められることとなった。これこそが、未来のために欠くことのできない前提条件なのである。

強制労働というテーマは、国際的に比較して見るなら、法的対立の分野に限定されず、それをはるかに超えるものであろう。ドイツの補償問題をめぐる議論を例 にとると、差し迫った提訴だけがドイツの政策転換の前提条件ではなかったことは明らかである。むしろ、ドイツの社会の基調に変化が起きてはじめて、かって の強制労働者問題を左右の政治的対立をわずかながらも克服して適切に扱えるようになったのである。もちろん、これには将来を見通して決定を行える人物の字 在も一政界においても経済界においてもー欠かせなかった。過去4年間のドイツにおける経験によれば、何百万もの強制労働者の問題と取り組むにあたって、金 銭の問題にとどまるのでなく、奪われた青春と屈辱の経験の総体がどのようなものであったかを見定めることが重要であった。また、人格に付する敬意と、社会 における記憶保存が問題なのである。強別労働という形態を企業活動の一部に取り入れることがどう強制労働証明が可能な人すべてに一律1万マルクの一時金を して可能になったのかという悩ましい問題が、現代に生きる人間に突きつけられている。これらの人びとの苦しみが、我々白身の現在と未来に何を意味するのか は、我々が今日決定する問題である。フォルクスワーゲン社はいくつかの提案を行ったわけである。他の企業は、また別の解答見いだすであろう。 ご静聴に感 謝します。  (終わり)

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