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父から苦難を聞かされてきた ―遺族原告芮化江さん 意見陳述―

 

ルイカコウさん.JPGのサムネール画像

強制連行群馬事件控訴審の結審で遺族原告の芮化江さんが意見陳述をしました。その概要です。

 

 私は48歳で、中国・河北省の農村に住む農民です。父は芮慶華、かつて日本軍によって強制連行された被害者です。 父は2002年に日本政府、加害企業を相手取って提訴したのですが、裁判始まって間もなく病気のため亡くなりました。私は父が日本から帰国した後で生まれたのですが、よく生前の父から強制労働させられた苦難を聞かされました。
 父は、強制連行された時と同じ村で、その両親と兄、妹と農作業をしていました。1943年、19歳のとき、八路軍の遊撃隊に入隊しました。その年の旧暦の10月、ある村で日本軍に包囲されて、父も48名のゲリラ隊員とともに捕まりました。
 48名は捕虜としてロープで後ろ手に縛られて、1台のトラックに載せられました。途中縛られたまま、夕方北京の西苑の収容所に着き、大きな庭に入り、ようやくロープを解かれました。収容所の周りには電流の通った鉄条網が張り巡らされて、至るところに銃剣をつけた銃を持った日本兵が立っていました。ある時、逃げようとして鉄条網に触れて感電死した人を広場に置いてみんなに見せました。父はその情景を見て、収容所から逃げ出すことは困難だと思いました。
 西苑の収容所で1日3回、コーリャンのご飯が出され、寝具はぼろぼろになった毛布1枚を渡され、着衣は捕まったときに着ていた自分の服だけでした。西苑に3か月ほど留まった後、貨物列車に載せられて、天津に移動し、その翌日、千人ぐらいの中国人とともに船に乗せられ、船倉に入れられました。船は空襲を避けてしばしば止まり、半月ぐらいかかってやっと日本に到着しました。
 父はまた500人ぐらいの人と、列車で群馬まで連行されました。父達は、日本が降伏する1945年8月15日まで、利根郡月夜野町(当時、利根郡桃野村)で強制労働を強いられました。住むところは、木の板で作った建物で、屋根は木の皮で葺いたものでした。 中は両脇に板敷きの寝台があり、真ん中は通路になっていました。トンネルの中の作業するために、破れた靴のようなものを麻袋で足に巻いて働きました。食事は、1日3回、毎回2個、大豆かすと小麦粉をこねて作った饅頭のような食べ物でした。長時間の重労働にもかかわらず、粗末で少ない食べ物しか与えられなかったので、中国人労働者はいつも飢えていしました。
 父たちは毎日12時間以上も働かされて、トンネルを掘り、大きな岩を運び、“クルマ”と呼ばれたトロッコを押しました。トロッコを押す力がなく、現場監督の人に木の棒で殴られました。父の頭に大きな傷跡が残り、私たちも見たことがあります。また、日本語が分からず、誤った工具を渡して、斧で肩や背中にも殴られた傷跡があります
 私は法律が公平なものだと信じ、日本の法廷も正義を擁護するところだと信じています。かつて日本政府や加害企業が犯したことに対し、正義感のある中国人・日本人は決して忘れることはないと思います。私は正義感のある裁判官の皆さんに、良心に従い、法律の尊厳を守るためにも、公平かつ正義な判決を下すようお願いします。そして、私たちは日本政府や企業に対し、戦争中に行ったことにきちんと責任を持って、中国人強制連行・強制労働被害者とその遺族に謝罪することや、経済的な賠償を、強く要求します。そうすれば亡くなった父親もやすらかに眠れるでしょう。私たちは公正、公平な結果を勝ち取るまで、戦って行きます。

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